「日本国紀」が末永く愛される為に
したのが、私になんの挨拶もなくね、使われて、それが商売されているというのを見ると、それは無いだろというのは、やっぱりあるわけです。
ありますよ、当然。
我々も、はっきり言うと、音楽を使いたい、映像を使いたいと言っても、お金を払わないといけないという事で、我慢したり諦めたりする事はあるんで。
ここの問題というのは、やっぱり一番の問題は、そこの引用をした事なんで。
当人も、はっきり言うと、Wikipediaとかそういう所から取っているというのは言っているわけですね、百田さん。
それはいいんですよ。
私は敢えてまぁ、ちょっと年上で、かつまた同じような業界にいたから言いますけど、そうしたら、引用したことは、ちゃんと後ろに入れるべきである。
参考文献というやつですね。
参考文献という形でね。
参考文献で入れるべきです。
膨大な資料を集めたって言うなら、その資料のあれは、やっぱり言うべきです。
つまり、ここまで話題になって、6刷りになって、もう10数か所、かなり文章が変わっているわけですから、
それは、この本の内容がいいという事とは別にね、それを訂正して、きちっと私はやるべきだと思います。
特に、引用したところはどこなのか。
別に、最初から知識があるわけじゃないからね、いくらでもいいんですよ。
色んな所から読んで、学んで、それからそこを引用したり、そこをかえてね、文章を書くという事は、あり得る。
歴史的な事実というのはあるわけですから、それをどういう形で書くかという事は、参考資料があるわけですから。
日本国紀という自体が、大変これは私は内容はね、いいと思いますよ。
大きな流れはね。
だからこそ、最初にみんな読む人が、結構、若い人も多い。
だったら、どこから引用して、どういう風に学んだんだと。
膨大な資料を積み上げたって言うんなら、ちゃんとそれを書いときゃいいじゃないですか。
2~3ページで済むでしょ、たぶん。
もっとあるかも分からないけど。
で、Wikipediaの所も、使った所は、どこを使ったってね、やったって全然恥ずかしい事じゃないです、これ。
歴史の事ですから。
むしろ逆に、信用が増すわけです。
6刷りまでやっているなら、そういう事をやるべきだと。
「いや、あれは歴史の問題じゃない」と言っても、
でも、間違った事を訂正しているんだろうと、どんどん。
それを、やりなさいと、私はそれを言いたい、同じ物書き仲間として。
そうなると、盗作とか、パクったとか、色んな事を言われちゃうわけです。
せっかくこれだけのきちんとしたね、こういう試みは無かったわけで。
編集者としての見城氏、著者としての百田さんには、敬意を表したいと思いますが、だからこそ、ちゃんとやってくださいと。
やるべきだよと、私はこの事を言わなければいけないと思いますね。
これはね、後の週刊新潮が、ある事無い事ね。
そうですね。
皇室に関して、
書いているでしょ。
はい。
皇室の問題。
それも、なんて言うんですか、「なんとか関係者」
そう。
「宮内庁関係者」
「秋篠宮の事情を知る関係者」とかね。
こんなわけのわからないものを書いている。
これも、だから本当はちゃんと出典を引用すべきだという事なんですよ。
はい。
こんな大事な事を書くなら。
という事と同じように、ジャーナリスト、あるいは物書きとしてね、やっぱりそれはきっちりやるべきだし。
見城さんはね、ツイッターとかそういうのは閉じちゃったけど、それはツイッターを閉じたければ閉じてもいいかも分からないけれども、閉じるべきだと私は思いません。
ちゃんと説明すべきだと思うけれども。
閉じてもいいから、その第6刷り以降の所には、ちゃんとどういう文献を使って、引用したか。
それは、みんなも勉強したいわけだから、もっと詳しくね。
そういう事は、ズラッと並べるべきだと思います。
7刷りからでもいいから。
そしてもう一つ言うけど、初版とか、2刷り、3刷りの所の人達には、3分の1でもいいし、もっと言えばタダで、これだけ訂正しましたから、配りますと。
はっきり言うとね、これだけ部数が出れば、印刷代とか、紙代なんて大した事無いんですよ。
それを、お申し入れがあればお配りしますと、最新版をね。
というような事を、やっぱり私はやるべきだと思います。
これは、ずっと残って、皆さんに読んで貰いたい本になるだろうから、しっかりやって貰いたいと。
それでなきゃ、こういう風に、例えば朝日に巣くう人達とか、それからみんなからワァーワァー言われますよと。
こんなのでやって、この本自体の存在、企画意図、これが全くね。
と思いますね。
色んな形で、その、やって、保守の全体がいい加減だとかね、やられるのはたまらんから、それはぜひやって貰いたいと、私は一応言っておきたいと思いますね。