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君一人は社会にとって尊いもの
まぁ皆さんは仕事を持っておられるし、また更により良き仕事と申しますか、期するものをお持ちになっておられて、色々もう努力しておられると思うんでありますが、皆さんがものを遂行するという場合にですね、そういう期するものをもっておられると。
「こういうことを次はやってみよう」というようなそういう考えが次から次へと湧いてくるわけですね。
そういう所にですね「生きがい」と言いますか、そういうものが浮かび上がると思いますが、そういう何か事をする時にですね、
そのする事の喜びを持つという事は、これはもう原則としてなければならんですね。
それが生きがいであるという事は、普遍的であると考えていいと思います。
そういうのがないという事は、それはつまり人ではない、というと少し言い過ぎかもしれませんが、何も目的がないと、何も自分の使命感もないとただ何の気なしに生きているんだと、そんな人は、僕はありえないと思うんですね。
例外はありますけど、原則としてありえないと。
何かは持っていると、何か自分は期するものがあると。
これは原則として考えていいと思うんですね。
皆さんが生きがいをどうお持ちになっているか、それぞれお持ちになっているという事を前提として、僕はそういう話をするんですが、そういうものすら持っていないという事であれば、これはもう話にならないと、こう思うんです。
自分は今、こういう会社でこういう仕事をしているんだと。
なんでそういう仕事をしているんですかと。
いやなんとなしにその仕事をしないと、他に仕事をしなきゃいかんから、これをやっているんだと。
そういう人が中にあるとすれば、これはけしからんなという感じがするんです。
それは、君自身の為にけしからんやないかと。
また、社会の為にけしからんやないかと。
君一人は尊いもんだ、社会にとって。
その尊い君というものを、もっと活かしてもらわなきゃ困るという事はね、僕は言えると思うんです。
お互いに、そういう事を言い合えると思うんです。
僕の若い友達にもですね、君の生きがいはなんだとこういう風に尋ねられたらね、僕の生きがいは今こういう事だと、僕は言えると思うんですね。
そいうのは持たないとですね、なんにもならんと思うね。
だから、どんな仕事をしている人でもね、その人なりにそいうものを持っているんが、私は原則なんじゃないかと思うんですね。
そういうのを持たないんだと、何の為にも働かないのはけしからんと、喧嘩の一つもくれていいと、私は思うんです、本当はね。
けど、そんな事をしたら問題が起こりますからやりませんけどね。
ありがたさを理解する事の大切さ
「楽しい」という事を感じるという事については、色々ございましょうが、私は、聞かされるところによるとですね、「楽しい」という事の大きな根底はやはり「ありがたさ」が分かるという事だと。
「楽しい」という事の大きな根底は、やはり「ありがたさ」が分かるという事だと。
ありがたさが分かるという事が、楽しさというものを生み出す大きな原料だという事を聞かせて貰いました。
そういう事について、一応疑問を持ってみましたが、自分は50周年を経て来ましてですね、それがそういうよな感じを、最近高まってまいりました。
今お互いに、物資につきましても、こういうものが欲しい、ああいうものが欲しいという事で時には喧嘩をする。
しかし、ある一つのものを欲しがるという事は、人情として、欲望として最もな事だと思います。
しかし、その欲しがるものが何であれ、それは一つの物にすぎない。
しかし「空気」というものはですね、そういうものよりもずっと大事なもんである。
水も大事なもんである。
しかし、水が一時なくても、生命に危険はない。
空気は5分間なくなれば、もう生命がなくなるという事が起きます。
それほど大切なものはですね、非常にふんだんにあります。
それほど大切なものはですね、非常にふんだんにあります。
そうでありますから、我々がここに生かされているという事は、まず空気がふんだんに与えられているという事によって、今を保っているという事についての理解というものを、あるいは喜びとでも申しますか、そういうものをどの程度感じるかという事をですね。
理解というものあるいは喜びとでも申しますか、そういうものをどの程度感じるかという事をですね、まぁ実は私もそういう事はあまり考えた事はございません。
しかし聞かされてみると、なるほど金儲けも大事であると。
仕事も大事であると。
我が使命というものも大事であると。
指名には命をかけようという事も意義があるように思うと、しかしそういう事でも5分間空気を止められたら、君は死んでしまうだと言われてみると、
なるほど空気というものは、一番大切なものである。
それが無限に与えられていると。
ある一つのものを欲しいために、お互い喧嘩をする、醜い争いをするという事も時には意義がある事なのかもしれません。
時には意義がある事なのかも分らんが、そんな小さいものよりももっと大きな、無限と申してもいいような空気が無限に与えられているという事に対する、どういう感じを持っているのかという事を考えた時に、はたと私は詰まったのであります。
なるほど考えてみれば、もっともっと大事なものが、
もっとなくてはならんものが、無限に与えられているという事に対して、心の狭い考えにあったと。
もっと一つ、自然の姿を眺めたならば、無限に生かされているというのが分かる。
人間、自ら生きる努力というものは、その内のごく一部分である。
自ら生きるというのはごく一部である。
その一部分によって、色々問題を起こしているという事が、なんだか自然にすまないような感じがするんであります。
無限に生かされるあらゆる要素というものが与えられている。
それに対して、何の感情も持たない。
そして、そう大してない物に心映えてですね、物を判断する事が、あまりに小さい自分であったというような感じもしています。