理想の社会っていうのは存在しないんですね。
我々はいくらでも理想の社会は考えることができます、しかし実際問題として理想の社会なんていうのは存在しないんですよ。
我々の日々の行い、活動そのものの積み重ねが社会ですからね、こういう社会を作ろうなんて言ってできるものではありませんね。
まずそういう理想の像を示して、そこへ向かって動かしていこうというか、そういう社会を目指してみんなでいこうというのが、構築主義って言いますかね、ユダヤ思想なんですね。
まだないもの、何にもない、なんにも、なんて言いますかね、成果がないと言いますかね、要するに悪くいえば幻想を振りまいて、そういう社会にしようじゃないかということで、なんていうのか洗脳するのが、そういう意味ではユダヤ思想なんですよ。
だから共産主義がそうでしたね、だから共産主義は失敗したんですよ、そんな共産主義が言うような搾取のない社会なんて実現できるはずがない。
それができるということでその共産主義革命っていうのは行われたわけですからね、それと同じことを今やってるわけですよ。
グローバルの社会の、国境を廃止すればよくなるんだ、紛争がなくなるんだって、そんなことはできるはずがないわけですね。
それは我々も日々注意しなきゃならないのは、例えば今度の、まあ事実上の移民法ですが、外国人労働者がくる、それで共生社会を作るんだと安倍総理自身もおっしゃってるんですがね。
安倍総理自身も官僚に言われてそういう言葉を使っておられるのだと思いますが、私が知る限り、共生社会というものは世界のどの国にも存在してません。
それは私も現場で見てきましたけれども、例えばベルギーにいる時もね、イランからの移民とかいましたけど、彼らは彼らで集団で生活するんですね、その一角は普通の人も入れないような、つまり治安の悪い一角になっているわけです。
ヨーロッパにも、まあイスラエルもそうでしたが、フィリピン人のメイドさんがたくさんいましたね、私も雇ってましたが、その人たちもフィリピン人で集まって一つの社会を作っているわけです。
共生社会なんてできないんですよ、これは。
だから今のヨーロッパを見ても、ドイツで例えばそのシリア難民とドイツ人が共生してますか、全然してないでしょ。
だから共生社会という言葉自体がポリティカルコレクトネスなんです。
共生社会の素晴らしいもんだという幻想を振りまくことによって社会を混乱させるということですね。
それを、日本もそのターゲットにされて、今、日々そういうポリティカルコレクトネスの攻撃を受けているわけですね。
ヘイト法はもうやられましたね。
それ以外にもこれから出てくる危険が、前も申し上げましたが人権擁護法、これまた出てくる危険がありますからね。
それは誰の、ヘイト法も人権擁護法もなにかというと少数者を保護する法律なんです。
つまり少数者と多数者を分裂させる法律ですよ。
それを法律で規制しようということですからね。
それが日本を襲っている国難なんですね。
我々がそれを見抜けばいいんです。
日本はもともと共生社会、そういうような共生社会だったんですね。
それは昔から、八百万の神々が共生していて、みんな役割が違ったわけですね。
日本人として何もやればいいのか、あるいは精神武装はどうしたらいいのかというご質問がありましたけれども、それはまず我々が古事記の昔からの伝統的な精神に復帰することなんですね。
そこでは何を教えているかというと、我々自身、それは和の世界というものを教えているんですが、和の世界とは何かというと一言で言えば私たち一人ひとりが自分の分を尽くすということなんです。
自分という言葉は自らの分と書きますね、皆さん。
これはまあ若干後、自分という言葉が後から出来ましたから、後付けの知恵に過ぎませんが、これはなかなか言い得て妙な言葉ですね。
自らの分です、自らの分を尽くす、そういう存在が自分ということですね。
これを別の言い方をすれば個性ということになりますがね、個性というものは別に作るものじゃないんです、備わっているものなんですよ。
私はずっと申し上げますがね、そもそも備わっているものなんだから、個性教育なんていうのは間違ってるんですよ、個性をつくる教育っていうのはね。
自分に備わっている個性を引き出す教育というのはありますが、新たな個性を作り出す教育っていうのはあり得ない、そういうことですね。
作り出そうとするのが欧米の個人主義ですよ。
そうじゃない、日本はもう最初から、我々はそういう個性を唯一無二の個性を持った存在として、日本人一人一人が、私たち一人一人が存在しているんです。
その自分の個性を発揮するということが、分を尽くすということなんですね。
ですから「古事記」なり、日本精神を解釈した、戦前に作られた「国体の本義」を読んでみますとね、なぜ当時、1937年当時の日本が思想的混乱状態にあるかというと、我々が外来思想を土着化できなかったからだという結論を出しているんですね。
それが結局まあ、いろいろ別の要素もあるんですが、日本から見た大東亜戦争の原因の一つではあるわけなんです。
だから我々はその外国の思想を土着化する力があったわけですね、あったんですね、今も全くなくなってはいませんが、昔はそれが強かったわけですね。
それが、日本が明治維新を生き延びた最大の理由でもあったわけです。
最後に時間になりましたが、ちょっと超過しましたが、例えば日本のそういう知恵を見抜いた人の一人に、大正末期から昭和の初めにフランスの日本大使として駐在したポール・クローデルという人がいるんですが、その人の言葉を紹介して今年の番組を終わりたいと思うんですけどね。
彼は昭和の初めまでいて、本国に帰ったんですが、その第二次世界大戦中、日本の敗色が濃くなってきた1943年にこういう言葉を残しているんですね。
それはね、ポール・クローデル曰く、世界でどうしても滅んでほしくない民族がある、それは日本民族だ、というわけですね。
そしてその理由としては、日本は太古の昔から文明を積み重ねてきたから、明治維新後、急速に欧米文化を輸入しても発展することができた、と言ってるわけです。
そして日本人は貧しい、しかし高貴である、と結んでるんですが、ここに、日本がなぜ明治維新後、今日の経済的発展を遂げることができたかっていう鍵が隠されているわけですね。
もう皆さんもお気づきの通りに、日本は太古の昔から文明を積み重ねてきたから、欧米文化が入ってきても、文明が明治維新後急速に入ってきても、日本らしさを失わずに発展することができたっていうことを言ってるわけです。
これが日本の生きる道であり、伝統精神なわけですね。
その伝統精神が今、弱くなっているわけで、それはなぜかというと私たちが太古から昔から積み重ねられてきた文明を今忘れつつあるからですね。
ですからその精神武装、いったい何をしたらいいのかという事ですが、こういう連綿とその太古の昔から続く私たちの伝統的な思想、思想というものですね、そういうものをもう一度、それに思いをはせるというか、思いをはせるだけだめで、それを取り戻すということですね、それが精神武装になるわけです。
最後に、視聴者の方のご質問の中で、ロシアで生活をしてこられた方の印象が出ておりまして、私のロシア観と全く同じだったんですが、ロシア人っていうのは、ロシア人についてですね、実際にロシアで生活して、中国人との対比で実に鋭いご指摘をその方はなさっております。
ロシア人っていうのは、この方は南部のクラスノダールという町に住んでおられたんですが、その時の経験をつづってくださったわけですけれども、日本人とロシア人の共通性について私は何度も申し上げましたが、それに共感できる経験をされたということですね。
それで、個人主義的でなく集団主義的であるとか、集団全体の調和を重んじる傾向が強いということも実感として分かるというふうにおっしゃっていただいておりますけれども。
ロシア人は日本人よりも少し荒っぽいところがありますが、決して攻撃的な発想の人々ではありません、ということですね。
またここからが面白いんですが、これも私は全く同感なんですが、ロシア人は中国人が大嫌いで、性格的にも全く合わないという、まあ私もそう言っておりますが、この方も本当にそういう経験をされたそうですね。
この後私は感心したって言うか、私のロシア人観ともう全く一致するんですが、ロシア人は中国人について単に嫌っているだけでなく、およそ精神の美しさや崇高さなどのあらゆる精神的美点からは程遠い中国人を、まあ言わば軽蔑しているというような趣旨が書いてありましたね。
これはですね、ロシアがあの共産主義の漆黒の中からいかに生き延びることができたかということを逆に示しているというふうに私は理解できました。
つまりロシア人は精神の美しさ、精神的なものに対する憧憬って言いますか、憧れが強いんですね。
その辺は日本と似てるわけですよ
だから即物的な物質欲に固まってる中国人とは全く合わないと、私申し上げましたがまさにその通りなんですね。
ですからプーチン大統領がですね、ロシアがよみがえった理由として、核兵器ともう一つ、ロシア正教を挙げたっていうのは非常に意味の深いことなんです。
まあ核兵器については我々ちょっと複雑な感情を持ちますけれども、ロシア正教があったからこそ、つまりこういう精神性を重視する国民性があったからこそ、あの唯物主義の共産主義体制を生き延びたということをプーチン大統領はおっしゃってるわけですね。
それがまた、ロシアだけではなくて、日本の、私たちの答えでもあるわけなんです。
私たちが今後どう、この難局をですね、来年以降からの難局を乗り越えていくかという答えが、この精神性というところにあるわけですね。
我々が精神性を、日本の伝統的な精神性を失えば、先程のポール・クローデルにありましたように、もう滅んでほしくない国民で民族でなくなってしまう危険があるわけです。
私たちがなぜ、ポール・クローデルなり世界の心ある人たちから、生き延びてほしい民族だと思われているかと言うところは、ひとえにこの日本の精神性の高さ、貧しくても高貴な精神を持った私たちの精神性の高さにある、道義性の高さにあるということですね。
答えがどうも抽象的にならざるを得ませんでしたが、来年以降はそれの具体的な、さらに具体的な私たちの取るべき行動も含めてお話しさせて頂ければと思います。
どうか皆様方にとっては来年が良き年になることをお祈り申し上げます。
しかし残念ながら厳しい年にならざるを得ないと思いますが、それを乗り切れるかどうかは、今申し上げました私たちの精神性、道義性にあるということをもう一度繰り返してこの番組を終わりたいと思います。