釈迦とイエスキリストの登場と幸福
それで今に残っている1番ちゃんとしてるなと思うものが、私が思うんじゃなくて、歴史的なフィルターにかかって残ったものって言ったほうがいいんですが、それはお釈迦様とイエスキリストでしょうね。
ムハンマドは紀元700年ですから少し最近なので、この2人がどういうものを幸福かと思ったかというのを見ますと、つまり幸福というのは2つあるというわけです。
1つは、誰かが言ったものをそのまま正しいと思って、それが真実だと思って信じ込むというのが1つと、もう1つは科学的根拠でもって自分で幸福というものを考えるという、2つあるわけですね。
自分で幸福というのは何かを考えるにも、お釈迦様とイエスキリストを参考にしてもかまわないわけですね。
お釈迦様とイエスキリストは人間じゃないか、それとも人間じゃないに近く偉いということですので、神様に近いということなので、この2人を取りますと、
お釈迦様がまず何を言ってるかと言うと、一切皆苦、人生というのは思うとおりいかないよと、思うとおりいかないということを理解するんだというわけですね。
本当に思うとおりいきませんね。
自分は一生懸命働いたのに、何でここで俺が切られるの、あいつより俺の方が働くのに何であいつの方が先に出世するの、山ほどありますよ、女の人だったら、これだけ一生懸命買ってあげてるのに旦那は何だと、文句がありますよね。
一切皆苦なんですよ。
人生は思うとおりいかないんですよ。
思う通り行かないと思うことができないというのが、辛いと言っているわけですね。
幸福にならないと言ってるわけですね。
それから諸行無常である。
物は変わっていくんだと、小学生だったらそのうち中学生になるんだ、中学生だったら、これは私は自分の子供の時にはよく分からなかったんですけど、孫を見ていますと、本当に1歳2歳3歳と、1歳ずつ全然違いますね。
諸行無常ですよ。
だけど2歳の孫が2歳のままいるということもできないんですよ。
やっぱり3歳になるんですよね。
だから諸行無常なんです。
これも本当にそうだ、今日は続かないんだ、今日は今日1日だけなんだ。
世の中は思う通りいかない、全部物事は移りゆくんだ。
簡単に幸福になる方法
この2つだけでも毎日毎日唱えたら、多分幸福になるでしょうね。
諸法無我、いろんなものが因果関係でつながってるんで、つながっていて変化するんだと、だから単独ではないんだということですね。
私が利己と利他というのと一緒なんですけども、そういうのが全部できれば、般若寂静というのかな、ゆっくりして幸せが来ますよと、悟れますよと、こんな感じですね。
だから一切皆苦、諸行無常、諸法無我。
これはお釈迦様が長い修行を通じて直感で分かったものであって、科学的に論理性があったかどうかわかりませんが、多少あったんでしょうね。
イエスキリストの山上の垂訓
これに対するイエスキリストですけど、これはやっぱり山上の垂訓でしょうね。
山上の垂訓という有名なのがあるわけです。
イエスが群集を引き連れて山の上に上って、山の上でみんなに語ったという、非常に有名な山上の垂訓というのがあるんですけど、ここでこう言ってますね。
心の貧しい人たちは幸いである。
天国は彼らのものであると。
悲しんでいる人たちは幸いである。
彼らは慰められるであろう。
それからいろいろあるんですが、憐れみ深い人たちは幸いである。
彼らは憐れみを受けるであろう。
心の清い人たちは幸いである。
彼らは神を見るだろう。
こういうふうに言っておられるわけですね。
イエスキリストが考える幸福とは
これは2つに分かれますね。
1つは現在不幸な人、貧しい人、悲しんでいる人は、そのうち良くなるよと言ってるわけですね。
だからこれは一切皆苦、つまり人生が思うようにならないから貧しかったり悲しかったりすることがあるんだけれども、諸行無常、やがてよくなるよと言ってるわけですね。
それから、もともと心が清かったり憐れみ深かったりする人は、これはやっぱり報われるでしょうねと、こういうふうに言ってるわけですね。
これは無理やり言えば、憐れみ深いとか心が清いということが、憐れみを受けたり神に近かったりするという、そういう因果関係があるということを言ってるわけですね。
ですから言い方は違うんですけども、イエスキリストがおっしゃっていることは、お釈迦様がイエスキリストの500年前に言われたこととほぼ同じ、ということなわけですね。
お釈迦様は一応天国とは関係なくて、人生の中で幸福を見つけなさいと、悟りを見つけなさいと言っているわけですが、イエスキリストはちょっと宗教的なので、あなたは天国に行けますよという言い方で同じことをおっしゃってるんじゃないかというふうに思うんですね。
こういうふうに考えますと、宗教的な幸せというのもあるわけですね。
ただ私がここでちょっと苦言を呈しますと、お釈迦様とイエス様が言われた、幸せとは何か幸福とは何かというのは、これは2000年の時を経って、まだ人の心に残っているわけですから、
それからおそらくお釈迦様もイエス様もその後のお弟子さんの様子を見ると、大変に神様に近い人だったということが分かるので、これを直接利用させていただくというのは大変に素晴らしい。
キリストを都合よく利用するローマ法王
だけども、その後の人が書いたものは僕はあんまりあてにできないと思うんですよ。
偉いお坊さんが書かれたものも、読むと確かにそうだなと思うんですけど、それがお釈迦様とちょっとニュアンスが違いますと、
僕はお釈迦様が言われたことを、ニュアンスを変えるだけの力が後の坊さんにあったのかなと思ったりしますし、
キリスト教の人には大変恐縮なんですが、私はイエス様が言われたことは非常にそうだなというか、理解できなくてもそうだなと思うべきだろうなと思ってるんですね、神様に近い人ですから。
あるいは神様かもしれませんし。
しかしローマ法王がこう言われたと言っても、ローマ法王って、僕が読んだイエス様が聖書の中で語られている、いけないことをしているんじゃないかっていう気がするんですよね、権威をつけていいとこに住んで。
だからその人が幸福はこうだと言われても、あなたが言うんだったら、イエスキリスト様が言っている聖書に書かれたことを、そのまま私は幸福だと思う、っていう感じなんですね。
だからこのお釈迦様とかイエス様が言われたことというのは、私がここで展開しようとしている、幸福とは何かということの中に、入れさせていただきたいと思っているわけです。
つまり、これもある意味での科学的根拠なんですね。