今の日本に生まれた時点で8割は幸福
もう人間として生まれて、戦争のない時代に生まれて、日本に生まれて、そしたらもうだいたいこれで幸福なんでしょうね。
8割は幸福だと思うんですよ。
選択の余地なく幸福になっちゃってる。
そのあと少しが、少しの20%くらい、自分が選べるもの、自分が選べるものと言っても自分の性格も選べませんしね。
親父がなんだったかというのも選べないし、選べる中のほんの少しでもって、幸福であるとか不幸であるというのを論じてるんじゃないかと思うんですね。
人生50年から100年時代への変化
先ほど言いましたように、100年前に生まれていれば、男性は肉体労働で40を越えれば身体はボロボロ、女性も6人から10人くらいの子供を産んで、もう40歳を越えればボロボロ、43で平均寿命死ぬ。
こういうのが普通であれば、50歳とか60歳で命を落とす人でも、俺はよかったな、50とか60とかまで生きて、というふうに思うでしょうね。
ところが現在みたいに、80までみんなが生きるもんですから、60で命が奪われる人は残念だというふうに思いますね。
どういうふうに自分の幸福、つまり幸福というのはもちろん相対的なものでもあるし、絶対的なそういう運命ですね。
細分化される幸福の中身
人間に生まれ日本に生まれた、この時代に生まれたという、絶対的なポジションというものを忘れて、そして幸福を論じるということになりますと、幸福の中身が細かく細かくなっていくわけですね。
いよいよ細かくなると、今日は家を出る時にちょっと靴を間違えたからこれは不幸であるとか、そういうような桁の話になる可能性もあるんですよね。
しかしそれは本当でしょうかね。
私はまだ結論は全然出ていないんですけど、生きる以外の目的が人間になく、かつ全く目的がなく人間は改善に改善を続けようとする、
そして脳の体積が増大したので幻想を抱くようになり、自分が幸せであれば幸せであるということを言い聞かせて、本当は自分は幸せじゃないんだけど、そういうことになる。
そうすると他人の幸せのほうが自分には幸せが感じられるんだけれども、そうはなかなか思えないという、脳の大脳皮質の論理回路、ゆがんだ論理回路の命じるまま、誤解した人生を送ってるんではないかとも思われるんですね。
今の幸福とはどういう定義なのか?
いろんな視点で動物と生物との関係、利他と利己の関係、それから今度は人生の生、性格というものが改善だけを求めている、だから改善していないところでの生活はやっぱり満足は十分には得られない。
その中で幸福とはいったいどういう定義なのか、ラッキーなのか、ラッキーというのはただ運ですよね。
しかし、我々が考えている幸福というのはもう少し精神的で、全体的ですよね。
単なる1つ2つがラッキーであるんではない。
幸いと言うよりは幸福と言った方が、まだ哲学的に深い。
人生死ぬときに、俺の人生よかったなというようなのが幸福なんでしょうか。
しかしそれもちょっとはっきりしませんね。
貧乏でも幸福になる。
それは本当にそうか、そう思いたいという気持ちはあるけど本当にそうか、ということも1回は、自分が悔しいからというんじゃなくて、1回厳しく考えてみるということもいいんじゃないかと思います。
鉄の鍬を手にした人類
人類は紀元前、最初は1300年くらいなんですが、紀元前700年くらいになりますと、鉄の鍬が行き渡るわけですね。
文明の発達しているところには鉄の鍬が行き渡る。
そうすると、それまでは石を削って叩いて少し平らにして、それに木の枝を縄で括り付けて、それで土を耕してたんだから、それは大変なんですよね。
一家の主が一生懸命汗水たらして働いて、やっと一家と赤ちゃんを食べさせて行けるという、そんな状態だったわけですよね。
王様や貴族や宗教家の正体
だからそれから今度は鉄の鍬ができて、サクサクと耕せるようになると、飛躍的に食糧増産ができて、それで暇な人が出てくるわけですね。
暇な人は王様であり貴族であり、思想家であり宗教家であり、軍隊なんですよね。
東京都民を9割の人が必死で支える日本
ですからそれはあまりいいことじゃなかったんですが、1割くらいの人が社会の上にいて、ほとんど何もしないで生活をし、今の東京みたいなものですね。
東京は食料自給率1%ですから、東京の人みたいなものですよ。
それにして9割の人が一生懸命支えるという、そういう社会ができたわけですね。
それが3000年も続いたんですけど、そういう社会になった。
そうなりますと暇になって、何が幸福かと考えるというわけですね。