人間が幸福に生きるための方法
幸福というテーマで少し考えておりまして、最初は動物というものの持つ特性をやりまして、それから前回は利他と利己、つまり我々は自分は幸福であるかということをもって幸福の尺度としようとしていますが、
どうも動物、植物もそうなんですけれども、生物というのは、自分の幸せを幸せと考えるんじゃなくて、同族、同族という範囲がいろいろあるんですが、同じ族の幸福を幸福と思うと、だから自分が幸福かどうかという尺度で幸福を考えてはいけないんではないかという話をしましたが、
今回はまたそういう別の角度からということで、これは生まれと幸福、というふうに読んでいただきたいんですが、そういうものを考えます。
なぜこの時代に人間として生まれてきたのか
人間が現在幸福かどうか、例えば収入が多いかとか、それから伴侶に恵まれたかとか、家族はみんな健康かとか、自分は比較的ちゃんとした生活を送ってきたかというようなことが幸福を決めると思っておりますが、実は人間というのはもう少し大きなものがあるんじゃないかと思うんですね。
例えば、なぜ自分は人間として生まれたのか。
なぜ自分は犬じゃなかったのか。
もしくは、ミミズじゃなかったのか。
自分がミミズではないということは、どういうことなのかということですね。
これはやっぱり少し考えてみなきゃいけないわけであります。
それじゃあ人間として生まれたとしても、時期がありますね。
例えば戦争がしょっちゅう行われている、侍のいる時代に生まれる。
もしくはそんなに遠くなくても、ちょっと100年も前だったら、1920年、今から100年前の日本人の平均寿命は、男女とも43歳ですから、私なんかとうの昔にいないと。
それから戦争もうち続いておりますから、私のような男性は兵隊にとられて、今頃どこかの外地で死んでるでしょうね。
何でちょうど生まれたときに生まれたんだろうか、日本に生まれたんだろうか。
だってアフリカに生まれたら、それこそ平均寿命は50歳くらいですし、病気もあるし、裸で生活して、毎日毎日やっとやっと働いて、少しのご飯を食べているでしょうね。
トイレはもちろん水洗トイレじゃないし、本当に彼らにとってみれば満足できる生活なんでしょうけど、我々にとっては、とても今そういう生活になると嫌だという感じですよね。
なぜ天皇陛下の子供として生まれなかったのか
それからもちろん、なぜ自分は天皇陛下の子供として生まれなかったんだろうか、実はこれは私も非常に強い思い出があって、今から30年くらい前にある人が人生相談に来たのを聞いて、その人は自分の近い人と比較して不満を言ってるんですよ。
自分は不幸だ不幸だと。
あの人はこうだ、この人はこうだ。
その人に、何であなたは天皇陛下の子供じゃないんですかと言うと、ドキッとした顔をして、何言ってるの、という感じでしたね。
ただ、彼が比較していたのは、自分の手の届く人と比較しているのであって、天皇陛下の息子だったら、全然それはもう比較にならないんですよね。
他人と比較して感じる人間の幸福
人間は比較できるものを比較してしまうんです。
人間として生まれた、この時代に生まれた、日本に生まれた、それから天皇陛下の子供ではなかった、普通のサラリーマンの子供として生まれた、男性として生まれた、女性として生まれた、
背は高かったか低かったか、容貌はいいのか悪いのか、健康に恵まれているのか小さいころから体が弱かったのか、いっぱいありますよね。
そういうものを全部、現状を認めて、その狭い範囲の中でちょっとの差を幸福と感じたり不幸と感じたりするというのが、我々じゃないかというふうにも思うんですね。
食べるものにも苦しんだ時代の日本人
例えば私ですと、私は戦中に生まれ、親父は普通の大学の先生だったんですけど、大学の先生の家庭に生まれ、けっこう貧乏で、ごくごく普通の家でしたね。
親父が大学の先生だったもんですから、配給前とかそういうのがほとんどダメで、本当に若いころは食べるのも苦労して、生きてきたわけですよね。
身体も私はものすごく弱くて、ろくに学校も行けなかったわけですね。
だけども戦争が終わった後に生まれました、それから日本に生まれましたから、みんなと一緒に長寿で、だんだんだんだん発展して、所得もすごく世界では多いし、
生活も一戸建ちに住んで、若いうちはアパートの時も随分あったんですけど、長じてローンを組んで一戸建ちに住んで、昔は風呂がなかったけど今では内風呂が、昔は内風呂と言ってたんですけど、風呂が家にあるなんていうのは信じられないことでしたけどね。
水洗トイレはある、この頃はウォシュレットになった、それからチンすればあったかいものが食べられる、ビールも家に買ってある、もう極楽ですよね。
しかしこういうのが整ってくると、今度は人間関係が難しくなってきて、あの人はどうだとかこの人がどうだと言い始める。
いろいろ夫婦間の間、家族の間もみんな昔は一緒に生活して共に苦しんだというのがなくなると、次の不幸が訪れてきたりする。
だから私たちは、どういう基準でもって幸福というのを考えるのか、ということですね。