釈迦の幸福論が対象とする人
ところがお釈迦様になるとどっちかというと、お釈迦様自身は王様ですから、王様のところに生まれた王子様ですから、言ってみれば分布の金持ちの、幸福の方にいる人なんですけど、だいたい教えとしてはちょっとインテリ的というか、ちょっと金持ち的かもしれませんね。
例えば、一切世の中はうまく行かないとか、だってお釈迦様の言う一切うまく行かない、諸行無常である、因果関係があると言った、こういった基本的な教えというのは、どっちかと言ったら余裕があって、食うに困らないからですよね。
食べるのに困ったら思うようにいかないって、もともと世の中思うようにいかないよっていうことになるわけですよね。
ですから、確率的にどこを論じているのかということがはっきりしなきゃいけないですね。
例えば幸福論を述べる時に、今から話す幸福論は5歳の時に不運にして重い肺炎の病気になり、それによって片方の肺が使えない人の幸福論です、とか、
今から述べる幸福論は非常に運動神経があり、プロ野球で名声を博して、一生悠々自適に過ごした人の幸福論ですと、こういう幸福論。
ごく平凡な人の幸福論
ところが普通は、標準的な人、っていうとまた難しいんですよ。
標準的な人。
例えば幸福論に、幸福論の論文を読みますと、1番最初に、今から述べる幸福論は、かくかくしかじかの人間を想定して幸福論をしゃべっている、と。
例えば極端に言えば、生まれてすぐにお亡くなりになる赤ちゃんの幸福論だと、わずか1年とか半年の間の幸福を論じないといけないわけですね。
ですから、なかなか全然言っている幸福論が話にならないわけですね。
自分の幸福論と確率論
そうすると、今度はそういう幸福論という学問をいろいろ考える上でのことに加えて、今度は自分の幸福というのを考えたときに、やっぱり幸福論を読むと、幸福論と自分とを比較しちゃうんですね。
そうすると、自分が幸福ならいいのか、それとも自分が所属する集団、例えば自分の家族、もしくは自分の国、これが幸福ならいいのか。
いいのか、というか、それが幸福であるという状態を私自身は気をつけているのかというと、だいたいおぼろげには自分なんですよ。
おぼろげには自分。
だけど、自分というのは今度確率論が入っちゃうんですね。
だって、自分が日本全体のどこに所属しているか分からないですから。
日本人の平均的な幸福
ところが、日本の幸福、日本人の幸福と言ったらまあまあいけるんですね。
というのは、日本人1億2700万人全員が、人はそれぞれ違うけれども、最も全体としての幸福の和が1番最大になるところを幸福という、というふうに定義すると、こちらの方は、1億2700万もいれば、一応大丈夫なんですよ。
どのくらいいればいいかというと、集団というのは1万人くらいなんですね。
統計物理学で非常によく議論することなんですけれども、1万人から10万人くらいになりますと、統計的な取り扱いができるというんですね。
分布がどうであるとか、どういう人がどのくらいいるとか、どういうものがどれくらいあるというのが議論できる。
だから、1万人から10万人くらいいると、こういう統計的な考え方ができる。
そうすると、自分は幸福である。
しかし、日本は幸福でない、もしくは自分の家族は幸福ではないというときに、幸福論というのを考える時に、どこに基準を取るかということですね。
ちょっとこれはややこしいんで、理解が難しいかもしれませんが、自分はこういう幸福論で幸福である。
しかし、家族はこういう幸福論では幸福ではない。
例えば、非常に簡単な話なんですが、女性は子供を2人持った状態が幸福だ、というと突然、じゃあ私は子供がいないから不幸か、とこうなるわけですね。
いやそうじゃない、と僕は言うわけですね。
1万人の結婚した女性がいれば、必ず子供が生まれないお母さんが100人とか500人とかいるんだ。
その人がいるからこそ、今度は逆に3人4人の子供を持つお母さんがいるんだと。
だからあなたがいなければ全体は構成されませんよ、と言うけど、そういうと難しいんですよね。
そうすると、女性は子供2人でどうのこうの、子供がいることが幸福であるという幸福論は無意味なんですね。
じゃあどういう幸福論が大切かと言うと、子供がいない人もいる人もいるという幸福論になりますから、そうするともう1個引かなきゃいかないんで、非常に難しい。
今それを一生懸命考えております。
何かこれから資料があれば、と思っております。
SEXと幸福
今日はSEXと幸福ということで、ちょっと非常に口に出すのもはばかるような、そういう題目がついておりますが、
実は非常に不思議なのは、キリスト教とか仏教も、それほど明白には書いてないんですが、だいたいお坊さんは、親鸞聖人のような、やや特殊と言ったら失礼なんですけども、偉いと言うか特殊と言うか、そういう人を除いては、どちらかというと妻帯してはいけないという感じがあるんですね。
キリスト教では特にそうで、だいたい牧師さん、神父さんは基本的には独身なんですよね。
なぜ独身かと言うと、セックスが罪悪感を伴うからなんですね。
SEXと罪悪感
セックスが罪悪感を伴うということは、非常に不思議なことなんですね。
というのは、我々はセックス失くしては、子孫が生き残らないわけですから。
だから人間という種を保持するには、セックスが罪悪なはずがないんですよね。
ところが、どうしてもセックスというのは罪悪感を伴うんですね。
男性はセックスした後に非常に強い罪悪感を感じますし、女性は恥ずかしいという気持ちが常に付きまとうわけですね。
何か隠れてやらなきゃいけない、実際にそうなんですけど、隠れて行為をしなきゃいけないという、隠れてしなきゃいけないんですから。
だから、やっぱりこれは罪の意識がある程度あるんですね。
それは女性では恥ずかしいという心ですし、男性ではややどちらかというと罪の意識というのが基本にあるんですね。
なぜSEXに罪悪感があるのか?
じゃあなぜ人間はセックスに対して罪の意識を持ち、恥の意識、罪の意識、どっち言ってもいいんですけど、それを持って、宗教なんかが妻帯を禁止したりしているかということですね。
これは現代の生物学、もしくは考古学、もしくは文化論、こういったものを全体として見ることになるわけですね。
動物の性欲と人間の性欲
男性の性欲というのは、もともとは我々はサルですから、オス側に性欲があるはずなので、その場合メスは通常着飾らないわけですね。
どちらかというとオスの方が立派で、メスは目立たないわけですが、これは生物共通なんですね。
ところが男性の脳が発達して、本能が隠れて、いわば性欲に対して負の感情を持ち、性欲自体が曲がってくるわけですね。
ところが女性は子供を作らなければいけないものですから、ここでハッスルして女性の方から男性を誘うセックス、誘導型セックスに変わっていくわけですよね。
誘導型性欲に。
そのために男性はどうしても罪悪感を伴いますし、女性は恥辱心があるということで、セックスが何か闇のものとして存在するということなんですね。
社会的にはいろいろ離婚騒動だとか、赤線の問題とか、女性虐待の問題というのを生じますから、そういう点でもやや△なわけですね。