幸福感を感じない理由
ですから、自分が満足したのでは幸福感は味わえないはずなんですね。
他人が満足して初めて幸福感が味わえる。
そうすると、自分が満足するのと他人が満足するのとどちらが満足するかというと、私なんかが人間とか生き物とかそういうのを見ていますと、やっぱり私は自分が満足するより、他人が満足するほうが嬉しい感じがするんですよ。
嬉しいという感情は、自分のものには限界がありますね。
せいぜいお風呂に入って気持ちいいなと思ったり、そういう時に幸福感を味わえないわけじゃないんですよ、幸福ではあります。
ただ、何かを買ったなんて、手に入れたなんて、ほとんど幸福感は短いですね。
それに対して、子供のかわいい笑い顔を見たり、それから一生懸命子供を育てていますと、やっぱりこの子がめんどくさい、こんなことをいちいちやるより早く育ってくれたほうがいいと思うこともあるけど、つまり辛いこともあるけど、やはり喜びも格段ですね。
自分が例えば大学に合格したっていうのと子供が大学に合格したっていうのでは、子供が大学に合格したほうが嬉しいんですよね。
自分は、そうかと思うだけなんですね。
それから見ますと、幸福とは、自分ではないんじゃないかと思うんですね。
そうすると幸福を論じる時に、常にその人が幸福かと言う考え方をするわけですね。
あなたがこういう時に幸福だ、あなたがこうなると幸福だ、っていうふうになるわけですね。
あなたが病気をしないと幸福だ、だけども、家族が病気の時のほうが、自分が病気をした時より辛いですね。
自分が病気をしたときは、病気をしたか、仕方ないな、とこういうふうに思えるんですけど、家族が病気をすると、本当に心が痛みますね。
友人でもそうですね。
友達が病気になると、非常に辛い感じがしますね。
自分の幸福は他人の幸福によって決まる
その意味では、実は幸福というのは利己ではなくて利他。
利というのが少し難しいんですが、用語がないというか、幸せという名前を付けると、幸己、自分が幸せか、幸他、他人が幸せかと言うと、どっちかと言うと幸他、つまり他人が幸せかどうかと言うほうが自分の幸せを決定する。
自分の幸せは他人の幸せによって決まる。
だから利己と利他とはちょっと違うんですけど、用語がないという感じなんですよ。
あるかもしれませんね、いろいろみなさんが考えが浮かんだらご連絡いただきたいんですけれども、結局我々の幸福というのは、自分の幸福じゃない、他人の幸福なんだということになりますと、これはもう幸福自体を考え直さなきゃいかん。
要するに、実際的にもそうだと思うんですね。
こねくり回される幸福の議論
そうすると、幸福の定義をあまりあれこれ議論するつもりはないんですが、つまり幸福というのは幸せだなと、よかったなと、こういうことを思うことですから、定義をあまりこねくり回してもよくはないんですね。
定義は非常に大切ですよ、例えば幸いとかラッキーというのは、事実としての状態を言うような気がするんですね。
ところが幸福と言うと、事実とともに本人が満足、主体はどっちかと言うと幸福というと自分が満足、それから例えばラッキーと言うと、これは事実としてよかったというような感じがするんですね。
福沢諭吉が作った日本の幸福
日本の「幸福」というのは、明治時代の福沢諭吉が作ったようで、それまでは幸いとか幸運とかそういう言葉があったような感じがするんですが、いずれにしても幸福というのは、心の動きも含めた、事実と心の両方なわけですね。
しかしあくまでも自分なんですよね。
そうしますと、私は、幸福というのは他人が幸せになったことによる自分の満足感、だから幸福の中には他人と自分の2つが入っているのではないか、だからどういう状態が幸福かと聞かれましたら、それは他人が幸せな状態であると、こういう複雑なことをいろいろ考えてみる必要があるかと、そういうふうに思います。
私は、私の人生を振り返れば、自分の幸福、幸せは幸福感が少なく、家族とか近しい人が幸せになった時のほうが、幸福感は高かったと、そういうふうに私は思いますね。