恐竜の支配と絶滅
実は中生代に登場した恐竜も、横の恐竜より強くなるためには、自分が横の恐竜より大きくなきゃいけない。
だから大きな体のDNAを持った恐竜が支配する。
それよりもっと大きな恐竜になる、というふうにどんどんなって、ついに2億5000万年かけて、あんなでっかい恐竜になっちゃったんですよ。
最初はネズミみたいな恐竜だったんですけど、あれがあんなでかい恐竜になっちゃったわけです。
一説では、でかすぎて死んじゃったという話もあるわけですね。
隕石で死んだという話もあるんですけど、ちょっとつじつまが合わないところも学問的には実はあるんですね。
脳の進化こそ正しいと信じる人間の未来
人間も頭脳がどんどんどんどん進んで、ついに最近はノイローゼが出てきたりうつ病が出てきたり、いろんな精神病が出てくる。
つまり、脳の病気が顕在化してくるわけですね。
それから幸福論を言ったりなんかするわけですよ。
別に毎日ご飯食べてお風呂に入って、快適に過ごせばそれでいいはずなのに、幸福論をやらざるを得なくなってきちゃうんですね。
AI将棋にすでに勝てない人間の脳
この頃AIとかいう人間の頭と同じようなものができて、それが人間の将棋よりか強くなると、将棋はどうなるんだなんて考えたりしなきゃならないんですね。
だからこれは脳が発達してずっと行くと、例えばAIが進んでロボットができて人間を全滅させるとか、そうすると人間が改善と言っているのが実は滅亡だったと、滅亡の方に進んでいったりする、これが幸福論の混乱を招いていますね。
進歩しない状態が幸福だったのか?
私が幸福論をいろいろ勉強すると、ある人は、進歩しない状態が幸福だって言うんですよ。
これは私は、なかなかそんなことは簡単に決められないと思うんですね。
だって人間の本性が、体も頭も方法も全部改善することは心地いいと思っているわけですよ。
そういう性を持ってるわけですね。
その心地いいことをやるなと言われて、幸福かって言うと、それはやっぱりダメだろうと、そうすると、良寛さんの六畳一間の藁ぶき屋根のいろりよりも、東京に建っている近代的な豪華マンション、億ションの方が、心地がいい、幸福だということになるわけですね。
この幸福というのは、人間の性に合致しているという意味で幸福だというわけですね。
じゃあ人間の性に合致しないものの方が幸福だ、つまり例えばあまり便利になるのは幸福ではない、あまりいろんなことができるのは幸福ではないとしますと、自分の根本的な性質に反する状態を幸福と感じるということになると、これはかなりの飛躍というか、無理があるんじゃないかと思うんですね。
私は一応ここでは、人間は動物である、頭脳支配である、性が決まっている。
だから人間という生物の性に即した状態を持って、幸福な状態とするべきじゃないか、そうなりますと、東京の高層マンションの40階に住む億ションの持ち主ということになるんですけど、ちょっとやはり私も実は、そう言われると疑問が生じます。
動物の発生と人間の違い
動物というのがもともとどういうふうに発生してきて、動物というのは人間とどこが違うのか。
人間の中でも、鉄の鍬ができる前とできた後では、人間に暇ができるということで大きく幸福というものについても変わってきているんではないかということ、そして、人間の持つ基本的な性質というものがある。
その性質の第1は、改善しなければならない。
これは人間ばかりでなく、もともと生物がDNAでできているということもそうですし、人間がさらに頭脳というもので判断している、幸福感というのはおそらくかなりの部分が頭脳であろうと思うんですが、これもまた改善を要求する。
絶え間ない改善というものを求めながら、その中で幸福感というものを味わっている。
哲学的な幸福感と宗教的な幸福感
したがって、哲学的な幸福感、もしくは宗教上の幸福感でよく取り上げられるような、貧乏でもいいじゃないかとか、昔の生活でもいいじゃないかというのは、もちろん非常に論拠があるんですが、人間の本性とは反するんじゃないか。
やっぱり、人間の本性と反しても幸福だっていうことはないんじゃないか。
だからやっぱり藁ぶき屋根の六畳のいろり、トイレも汚い、そういうところに住むよりも、東京の高層マンションに住むほうが、一般的には幸福と思われるだろうと。
ここのところがあまり個人の恣意的なことではなくて、やはり人間とか生物とか、そういうものに即していなければいけないんじゃないかということを整理してきたわけですが、
幸福の利己と利他
実はどんなものでも自分がよければいいということを言われるんですね。
自分が満足する。
自分がいい生活をする。
自分が病気にならない、もしくは家族が非常に充実している、それが幸福なんだ、つまり幸福というのは本人の問題なんだというのが、非常に強い認識があるわけですね。
人間は一人では生きている価値が無い
しかし生物というのはもともとそうではなくて、生物というのは利他、つまり自分は生きている価値がないんですよね。
生物は一個体というのはもともと生きている価値がないので、どんなに狭く見ても一種族ですね。
人間という種族のために生きてるんですね。
もうちょっと狭く言いますと、例えば日本のために生きている、もしくは家族のために生きている。
これが生物の基本なんですよね。
どんな植物でも群れているわけですね。
生命は群れで形成されている
例えば、ある植物の種をいろんなところにバーッと蒔きますと、ばらばらに蒔いても、その結果として現れるのは、同じような草はどこで咲く、同じような木はどこで生育する、ってなるんですね。
それは、普通は非常にいいところは強い植物が繁茂して、山の上とか砂地とかの悪いところは弱い植物が繁茂するわけですね。
だけども、群れているんですね。
常に、どんなものでも群れています。
群れているというのはどういうことかと言うと、我々の体が細胞でできているように、また日本というのも1億2千万でできているように、常に我々生物は、自分であり他人であるんですね。