幸せになる考え方と方法!幸福とは誰のもの?人の性と幸福!科学的幸福論 その1 武田邦彦

集団への貢献

3番目は集団に貢献するということで、例えば哺乳動物のオスが一夫多妻の場合が多いんですけど、はぐれオス、ボス争いに負けたオスがすぐ死ぬ、もしくはメスが生理が終わったらすぐ死ぬ。

こういったのは、その集団に役立たなくなったら自分から命を捨てる、つまり死のスイッチが体の中で入る。

金言は苦しんで死ぬのか?

このとき見ていますと、どの死に方もそうなんですけど、人間のように苦しんで死ぬということがないんですよ。

人間でも本当は苦しんで死なないんじゃないかと思うんですけど、この前メールを頂いた中に、きわめて苦しんで命を落とした方のご紹介がありました。

私はそれを読んで、ボス争いに負けて死ぬはぐれオスの死に方、それから生理が終わって死ぬメスの死に方、それから鮭の死に方ですね、こういったものを見ていますと、苦しんで死ぬんじゃないんですよ。

体の異常が起こって死ぬわけでもなし、病気になって死ぬわけでもないんですね。

自分の命が尽きた時に死ぬ、まさに天寿で死ぬわけですね。

動物にとっての幸福とは?

そうすると動物が産まれて、例えば鮭なら海に行って一生を過ごし、それから川に上ってきて伴侶を探してセックスをして、そこで子供のために命を自分で捨てるという人生を見ていますと、

やっぱり動物は基本的には命以外の目的はないんじゃないかと、したがって天寿を全うすることが幸福の第1条件ではないかと。

じゃあこれが人間の時に天寿を全うするということだけでは幸福はもたらされないのかということです。

では、天寿を全うする意外に幸福がもたらされないとしたら、一体我々が追及している幸福というものは、命とか健康とかそういうものじゃないということになるので、そうするともしかすると、全部が幻想かなと思わないでもないわけですね。

例えば力が強くて、悠々とエサをとれるようなライオンの場合は、じゃあエサをとる以外の時間は何をしているのと言ったら、ゴロゴロ寝ているわけですよね。

寝ているということになりますと、それは幸福を追求しているとも思えないんですね。

幸福とは非動物的なものなのか?

つまり私がここでお話をしたのは、幸福というものが人間という動物の本質的なものであるならば、もし人間以外の動物にも幸福というものがあるならば、エサを取るのに余裕があるようなライオンは、何か幸福を目指してゴロゴロ寝ていないで何かするはずなんですよ。

サッカーをするとかですね。

もちろんサッカーはボールがないからできないという反撃も受けますからすぐ言わなきゃいけませんが、ただマラソン大会ならできますね。

何か動物の世界に、幸福を目指した命を保つという以外の、命を保つというのは例えば食料を得る、セックスをする、これは命を保つわけですね。

命を保つこと以外のことをしているかと、そうすると人間だけが幸福というものを追求しているのであれば、もともと幸福というのは非動物的なものなのか、つまり人間の頭の幻想だけによるものかと、そこのところをちょっと考えなければいけないんじゃないかと、そんなように思います。

動物には幸福が無いのか?

動物というものには幸福というものがないのか、動物というのは、余裕のない動物は一生懸命食べ物を探して、敵から襲われないようにして、そしてよかったな、これが一生が終わったな、と言って終わる、それで幸福感に浸ってるのかもしれない、

そうすると、寿命の第1原則、第2原則、第3原則が満足すれば、それでその動物は幸福な人生だったと、こうなるわけですね。

力のある動物、例えばライオンなんかの場合は、幸福になるには暇があってゴロゴロ寝ているのが幸福なのか、それともライオン同士で遊び歩いているのが幸福なのかという問題があって、

どうも動物は、幸福は単に生きていることだという感じがするんですが、それも人間が勝手に考えたことのように思うわけですね。

働く人と暇な人の誕生

それでは動物から考えるのもひどすぎるということであれば、人間で考えますと、紀元前700年、ヒッタイトでは1300年、中国では400年くらいなんですが、

押しなべてだいたい紀元前700年くらいに、人類が住んでいるところに鉄の鍬が少しずつ行き渡る、そうすると食料の生産性がものすごく上がって、みんなで仕事をすると暇な人が出てきちゃう。

つまり今までは、100人いたら100人が必死で働かないと、食べる物ができなかった、時にはよく餓死をした。

そうなりますと、一生懸命豊作を祈って米を食べられる、もしくは魚を食べられる、狩りがうまく行く、ということが幸福だったと。

今日はよかったな、狩りに出たけれども家族に獲物獲って来れて、って言って、帰ってくるとみんな家族が踊りを踊って歓迎してくれる、それをみんなで焼いて食べて、簡単な踊りか何かをして満足して寝る、明日も神様こうしてくださいといった幸福感に浸ると、こうなりますよね。

しかし鉄の鍬ができますと、だいたい1割から2割くらいの人が働かなくていいわけですよ。

暇な人が出てくるわけですね。

この暇な人が王様になり貴族なり軍隊になり、また思想家になったり、宗教の教祖になったりするんですね。

2階級に分かれた人間

そうするとその人たちだけじゃなくて、他の人も暇ができるわけです。

そして人間が2階級に分かれますね。

つまり、暇な人たち、これはほとんど働かずに、1割か2割くらい働いて、あとは8割が暇なものですから、そこで何かしなきゃいけない、ここでいわゆる幸福が何かというのが出てきたんじではないかと思いますね。

ちょうどその頃、宗教も出てきますし、ギリシャのソクラテスとかも出てきます。

中国では孔子とか老子とか出てきますね。

その前はほとんどいないんですよ。

インドがちょっと早いと言えば早いんですが、それでも思想家という点ではだいたいお釈迦様前後からですね。

物を考え始めた人間

ですからだいたい紀元前500年くらいから、人間は物を考え始めるわけですね。

そして、俺はこれで人生がいいのかとか、そういうことをいろいろやるわけですね。

宗教も出てきて、神様もいるとかなっちゃうわけですね。

そうすると、そこで幸福という概念ができてきたのかもしれませんね。

それまでの文献なんかがほとんどないので、なかなか文献上を当るということは難しいんですけれども、

しかしそれはお釈迦様が王様の子であり、ソクラテスが奴隷が90%くらいのアテネの町に住んでいたわけで、孔子も別に田畑を耕していたわけじゃない、王様の相手をしていたというところから見れば、

現在我々が整理している、その人たち思想家の最初の活動というのは、むしろ特権階級のものであって、多くの人たちはまだ幸福には関係がなかった可能性もあるんですね。

やはり相変わらず桑で畑を耕していた。

他人を侵略し始めた暇な人間

以前と違うのは、自分が耕したものを自分だけで食べていたのに、今では自分が作ったものの2割とか5割とかを暇な人に取られてしまうという、そういう悲惨な状態になり、相変わらず働かされるということがあるわけですね。

産業革命で過酷になった労働者の労働

これは産業革命で起こったことと同じですね。

産業革命起こったことは、機械ができて、今まで14時間労働だったのが1時間で同じ量ができるということで、みんな最初は喜んだんですが、蓋を開けてみると、つまり機械化が進んでみると、実は14時間は同じで、その14倍物を作るようになったと、そういうことなんですけど、

労働はむしろ昔より、自分で決められない分だけ過酷になったというのが産業革命だったわけですが、

暇な階級の幸福の誕生

そういった産業革命が紀元前700年くらいに起こって、それでソクラテスやお釈迦様や孔子様が産まれて、それで思想とか宗教が誕生した、そしてそこで富裕階級、暇な階級の幸福ということだけが一応できるわけですね。

これはもしかすると、もしかすると次の産業革命、1800年と言っていいんですけど、細かく言うとジェームズワット、1789年、トレビシック、1804年とか出てきますが、一応人々がもう1回格段に楽になるのが1800年なんですね。

それまではほとんど同じ状態が続くわけですよ。

つまり貴族の幸福を我々が今論じてるのかなと。

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