日本はモンゴルと対等に戦った唯一の国
そこで怒り狂った元のフビライ、つまり世界的に言えば、日本だけがモンゴルと対等な戦いをしたと言っていいんですね。
そこで今度はもう大変だというわけで、朝鮮から4万人の兵隊、それから江南軍というのを作りまして、南京あたりから10万、合計14万ですよ。
最初が26000ですから、14万っていうとそれのだいたい5倍以上ですね。
5倍以上の軍勢に、だいたい船も5倍、4400隻をそろえて、すごいですよね、4400隻をまず建造するっていうのが大変ですよね。
ガンガンガンガン建造して、わずか7年後に、日本に大挙して攻めてくるわけです。
また対馬をやっつけ、壱岐に上陸し、今度は長門にも行きますね。
日本のモンゴルへの勝利は神風のおかげではない
そしてまずは肥前、平戸の辺りを攻め、さらに長門も攻め、さらに博多に行くと、こういうことで、いわゆる弘安の役、大規模な戦いがありましたが、これもやっぱり互角で、結局元軍は陸上に基地を作ることはできないんです。
普通橋頭堡と言うんですけど、橋頭堡(きょうとうほ)を作ることができないんですね。
そして、結局夜になると船の方に引き上げないといけない。
引き上げると今度は日本軍の夜襲が来るというようなことになって、結局また今度も台風で全部やられちゃって、海の藻屑と消えてしまって、合浦に退却するという、そういうことになったわけですね。
この歴史を、日本では神風で教えるものですから、混乱しちゃうんです。
要するに神風でも何でもなくて、戦いは互角で膠着した状態のまま、元軍は船から上がることが、上陸することができなかったわけですから、負けみたいなものですね。
そのうち多分、台風が来なくても食料が尽きたり、それから船でずっと寝泊まりしていると、船は荒れますから、兵隊も嫌になって帰りたいということになるので、士気も衰えるので、多分台風が来なくても元軍は日本に負けたでしょうね。
日本が世界と行った最初の大きな戦い
だから日本の最初の世界との大きな戦いは、この1274年の文永の役と、1281年の弘安の役だったわけですが、これで元軍に完璧に勝って、実は日本っていうのは手がつけられないと、あのさしものモンゴル軍もやられたと。
モンゴルには、中国が話にならずすぐにやられ、当時は宋ですけどね。
それから中央アジアの諸国は全部やられ、イスラムはけっこう力があったんですが、イスラム諸国も全部やられて、韓国、そしてモスクワを取られ、ヨーロッパも奥深くまで攻め入れられたと。
ヨーロッパと言いますとモンゴルから相当遠いので、そこまでやっとモンゴルが行ったという感じですね。
ところがその後モンゴルは、モンゴル高原から中国の北京に、開封と言いましたかね、その当時。
日本の強さを世界は知っている
首都を移しましたので、本当に日本というのは目と鼻の先なんですよ。
それに島国でしょ。
そんなのすぐやっつけられると思ったら、痛い目に遭ったわけですね。
モンゴルが日本に侵攻した大きな間違い
これは日本が世界にデビューした、中世以来の事件としては非常に大きな事件だった。
日本は強いというのが、本当はみんなに分かったはずですね。
それが神風という間違った思想で伝わったんです。
これは次の回に言いますけど、やっぱり国民皆兵というか、日本だけが国家があった。
国家がある国なんか概念がない、当時。
そこにモンゴルが攻め込んできたところに間違いがあったと、そういうことになりますね。