反日を作り上げた日本の総理大臣の正体
反日という根源は、もちろん直接的には宮澤首相と河野官房長官が、全く事実を調べずに韓国に対して慰安婦事件というのを公式に謝ったという、日本側から仕掛けたものですし、
画像出典:たまねぎ通信
南京虐殺事件も、社会党を中心とした日本の人たちがでっちあげたものですから、反日が起こるのは仕方ないんですけれども、その根源となるものがある。
実力とかけ離れすぎた日本人の謙虚さ
それは実力があるのに対して、ものすごく卑下している。
その実力があるということと卑下しているということが、あまりに極端に開きすぎているということですね。
それの3回目なんですが、最初は神武天皇以来2000年の歴史を持った国は日本しかないということを指摘し、
2回目は例えばシーザーにしても、始皇帝でも、それからチンギスハンでも、どんなに偉い人でも、その遺伝子というのは全く地球上から消え去っているわけですが、
日本の天皇だけは、2000年間、神武天皇のY遺伝子と今生天皇のY遺伝子が同じであるという、そういう血筋による統治というのをしたおかげで、非常に国の力が強くなったということをお話をしましたが、
昔は怖かったモンゴルの歴史
3回目は、元寇、モンゴルが突然爆発したわけですね。
歴史を見ますと、例えばローマ帝国、マケドニアもそうですね。
ある時に突然、民族というのはバーンと目覚めるわけですね。
今のイタリア人を見て、もしくは第二次世界大戦の時にムッソリーニに率いられたイタリアを見て、かつてのローマを思い出す人はいないんじゃないかと思うんですよね。
そういうふうに、民族というのはものすごく変わるわけです。
現在のモンゴルを見て、中国に今やられておりますが、現在のモンゴルを見て、それがかつて世界を制覇した、あの大モンゴル帝国を作ったのと同じ国であるということは、考えられませんが、事実はそうなわけですね。
それでアジア全部を支配し、中国をとり、かつヨーロッパも奥深くまで攻め入り、当時けっこう勢いのあったイスラム諸国を全部やっつけ、そして日本に来たと。
モンゴルに侵略されかけた日本
その時はもう満々たる自信で、文永の役と言われますが、1974年に、第1回の蒙古侵入があるわけですね。
しかしその時は何しろ日本という小さな国ですから、例えばその当時、フィリピン、インドネシア、日本というのは、シナの地方、元から見れば同じような国だったわけですね。
少し海を渡ると、そこに島国があり、その島国に、いわば野蛮人が住んでいるというか、そういうふうに思っていたわけです。
ですから、とにかく軍隊をある程度派遣すれば、たちどころに撃ち滅ぼすことができるだろうと思って、軍隊の数は26000人、船の数は900隻ですね。
それでまず対馬に上陸して、対馬でひどい状態で殺戮をくり返したわけです。
男は全部殺す、女は裸にして手のひらに穴をあけて、それを船から吊るすという、そういうことをやったわけですね。
それで対馬を全部とってから、壱岐を経て、博多に攻め入ったわけです。
日本がモンゴルを追い返した元寇の真実
そのころには、日本も準備が整っておりまして、防塁を築いたり、その時の鎌倉幕府の北条時宗が、各藩に銘じて、軍勢を長門、備前、それから太宰府、肥前というところに配置をいたします。
そこに、900隻の船に26000人の兵士が乗った大船団が来るわけですね。
ところが、なかなか日本はすごいわけですよ。
最初は上陸させます。
陸戦になりますが、せいぜい数キロメートルしか入れないんですね。
それはどうしてかというと、鎌倉武士というのは結構強かったし、それから日本の風習では、そこで勝利をすれば恩賞がもらえるということで、子孫安泰するということもあって、身を捨てて戦うわけですね。
そしてだいたい1日か2日くらいの戦いが陸上でありますと、一応元軍は船に帰らざるを得ない、陸上に基地を作れないんですね。
そんなはずはなかったんですが、一応船に帰る。
勇猛果敢な鎌倉武士
そうすると今度は、日本軍の、日本の鎌倉幕府の小さな船が、櫓で漕いで、その絵をかいておきましたが、大きな元船に比べれば、小さな船で近寄って、夜となく昼となく攻める。
あるいは火の槍を放って、船を火災にさせるというような、そういう奇襲戦法に出るわけですね。
この勇敢な日本軍に手を焼いて、それで結局海上でもたもたしているうちに、台風に遭うわけですね。
私は小さい頃は、日本は元寇に対して元が攻めてきたときは、台風が偶然に来て、神風で勝ったというふうに習ったんですが、その後長じて戦績を自分で調べてみると、互角なんですね。
あのまま台風が来なくても、多分元軍は引き上げたと思うんですね。
何しろ日本国土を占領できないんですから、海の方に追い返されちゃうわけですね。