玉川徹氏の自己責任論に関する見解
自己責任論というのは否定しておきたいなと、釘を刺しておきたいなと、本当に今回特に思います
どうも政府が「行くな」って言っているのに行ったと。それからそうやって行ったくせに、自分から「助けてくれ」と言っていると。政府が「行くな」って言って、(ジャーナリストが)行くって事に関して、じゃあ、助けないんですか?
彼は、世界の民主主義のために、、命をかえている人なんですから、それを自己責任だと、助けなくてよかったんだなんて話を、一体どの口が言うのかって、僕は思います
橋下徹氏の自己責任論に関する見解
国とか地方自治体は、無条件で国民・住民を守らないといけない
例えば、政府を批判したり、知事首長・権力者を批判した場合に、批判者を助けなくていいと言い出したら、880万人の大阪府民のうち、7割は僕の事、嫌いですからね。知事の時、散々批判を受けていたけども、大阪府警が大阪府民を助けなくていいなんて言ったら、それはもう民主国家じゃないですよ
自己責任を完全に放棄する玉川徹氏への橋下徹氏の見解
自己責任というのはね、2つの意味があるんです。今回の安田さんの件は、今回は、僕は自己責任は自己責任だと思いますが、この自己責任には2つの意味があって
一つはね、自分自身である意味納得する、仮に安田さんがあそこで殺害されたとしても、それはもう自分でね、こういう仕事をやったために、殺されたんだったらいいやと。例えば僕が、知事、市長だった時に、大阪都構想や大阪の改革をやりましたけど、自分で手をあげてやった事ですよ。命も狙われました。殺害の予告もあった
ちょっとね、今は僕は適当に民間人でやっていますから、適当な男ですけれども、政治家をやっていた時には、正直、殺されてもいいと思っていましたよ。殺されてもいいと思った。大阪がきちっとこれで前に進むんだったら、それでもいいと思っていた
だから殺される瞬間に、ああ俺は、これで全う出来た。これが、自己責任の一つ目。自分が納得
もう一つはね、相手に対して、お前は自己責任なんだから、お前がちゃんと責任を取れ、というようは批判する意味での自己責任、僕はこれは違うと思う
あぁ、一緒ですよ
だから、安田さんが、最後命を落とす時に納得する事は自己責任なんだけど、周りの人が、お前は自己責任だから救わないよ、お前は自己責任なんだから勝手に命を落としたっていじゃないか、これは絶対に違う
だから、ちょっと国民の皆さんが自己責任を使う時にね、本人が命を落とすときの納得する自己責任の話と、周囲が安田さんを批判する時の自己責任を混同していると思う。僕は安田さんを批判する時の自己責任は絶対に違うと思います
それは、完全に同意です
海外では自己責任論は通じない?
海外では自己責任論が無い、通じないといった話があるなどといった話があるみたいですが、これはね、ある意味、日本の良さの部分でもあると思うんです
さっきも言いましたけれども、自己責任をもって、安田さんを批判するのは違うと思いますが、ただね、これは日本人のなんとなくの感覚ですけれども、危険地域に行って、政府は当然保護しなければいけません。絶対に保護しなければいけないけど
政府と言えども、みんな人間なんですよ、これ。僕も権力側にいましたけど、みんな普通の人間です。感情を持った人間です。ロボットでもAIでもなんでもないんですよ。そういうね、よくジャーナリストの人達は、ヒューマニズムを語ってね、人間は、人間はって事を言うんだったら、政府の、権力と言われている人達だって普通の人間だって事を思えばですよ、言い方とかね、ちょっとしたなんというか、表現のし方というのはあるじゃないですか
安田さんが政府を批判したとか、物言いが悪かったから、だから政府は保護しない、これは絶対にあり得ませんよ。僕がどんだけ批判を受けようが、大阪府内だったら700万人くらいが僕のことを嫌いな人がいますけど。でも、僕は大阪府警のトップとして、僕の事を批判しようが、嫌いだろうが、何をしようがきちんと守っていかなければいけない
それは当然だけれども、感情というものがあるわけでね。だから安田さんのこれまでの言い方、危険地域に行く、それが当然だとしても、ちょっと物言いとかそういう所を考えてよ、というのは日本人的な感覚だと思う。これは、外国人にはその部分は分からないかもしれないけれど
安田さんももうちょっとね、危険地域に行って、チャレンジしてくるけれども、もしかすると危ない目に合うかも分からない、その時はちょっと色々と政府の方に手数をかけるけれども、その時はよろしくね、といった感じの話をしてたらね、こんなに批判は起きなかったと思いますよ