バルチック艦隊と日本海海戦
向こうは全然分からない、というような事で、日本海海戦が行われたわけです。
幸いに、前の年の8月10日の黄海海戦で日本は一隻も失わないで済んだわけです。
玉は当たったやつはあったけど、それは全部修復済み。
旅順に逃げ帰った敵は全部海の底、というような、考え得る一番いい形で、戦闘が行われました。
その時に、
「天気晴朗ナレドモ浪高シ」
といった電報が送られたのですが、これには非常に意味があってね、
天気晴朗という事はね、敵がよく見えるという事なんですね。
だから、こっちに有利。
霧に隠れられて逃げられたら、ウラジオに入られたら終わりですから。
波が高いという事は、もの凄く玉が撃ちにくいからね、向こうの玉は当たらないだろうという話なんですけどね。
そういう名文の電報が入ったわけです。
そして、撃ち合いが始まりました。
東郷平八郎 丁字戦法
この時有名なのが、丁字戦法ですね。
非常にリスクの高い戦法だったのですが、敢えてやると。
この時に東郷大将はですね、こんな事を言っていますね。
「この戦いでは、日本の軍艦は全部沈んでもいい。その代わり、敵も全部沈めればよいのだ」と。
敵さえ全部沈めれば、こっちはもういらないんだと。
そこまで腹を決めて、一番危ないんだけれども、敵を全滅させるための作戦を立てたわけです。
撃ち合っては逃げてを8回くらいやる計画だったけれども、結局10回くらい撃ち合っているんですね。
後に、秋山真之参謀がですね、大正2年頃に2つの論文を書いています。
黄海の開戦と日本海の開戦ですね。
日本海の開戦の時は、戦闘開始の時、Z旗を掲げたわけです。
このZ旗というのは初めから約束がありましてね、
「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
という旗ですね。
日本の国の未来は、この戦いで決まるんだと。
ここで負ければ、陸軍の戦いもパー、全てパー、だからみんな頑張れというような旗なんですね。
そして撃ち合った時にね、これが1時55分、この旗が上がって、曲がり始めたわけです。
そうすると、敵は距離約8000mから撃ち始めた。
それからずーっと来てですね、日本は6000mになって日本が撃ち始めるわけですけれども、その撃ち始めたのがね、2時8分かその頃なんですね。
だから、わずか10分足らずの間にね、戦艦三笠に37発くらい玉が当たっているんです。
もの凄いんですね。
ただ、当時のロシアの弾丸はですね、徹甲弾といって鋼鉄を貫くっていう種類の弾丸が主だった。
どんどん貫いて落ちてくるんですね。
火薬は大して入っていないですし、火薬は古い形ですから、沈んだ船は無かった。
だから、日本の軍艦は一隻も沈みませんでした。
日本の文明力の実力
ところが日本の方はですね、下瀬火薬っていうのとね、伊集院信管ていうのが発明されていたんですよ。
伊集院信管なんてのは、どの本に書いてあるのか知りませんけどね、日露戦争の7年後に出来たイギリスのブリタニカの百科事典にはですね、伊集院信管の事が出てますよ。
如何にイギリス人は海の戦いに敏感だったかが分かりますね。
日本人も知らないような発明品の事がちゃんと書いてあります。
それから、下瀬火薬というのは全く新兵器と言っていいほどの、火力のある発明でありました。
これはピクリン酸を、なんか応用した火薬でね、日清戦争の前に一応出来るんですけれども、これを実用するには大砲などとの関係もあって、実用にはなりませんでしたが、日露戦争に間に合いました。
この下瀬火薬をいれて、伊集院信管をつけた日本の玉が当たりますとですね、すぐ爆発するわけです。
鉄鋼を貫くよりも爆発するんですよ。
爆発しますとね、この、下瀬火薬は4000度という滅茶苦茶な高熱を発して、破片が飛ぶわけです。
そうするとね、当たっただけでね、甲板が殆どダメになるんですね。
甲板に人がおれなくなるんですよ。
だから、たちまち敵はね、最初2、3隻、すぐに火災を起こすんですよ。
というのは、下瀬火薬は高温の為に、軍艦は全部ペンキを塗ってますけど、ペンキが燃え始めますからね、その甲板にはおられなくなるんですよ。