ウラジオストック入港を阻止せよ!
それで、その旅順の艦隊は、ウラジオに入ろうとするわけです。
ウラジオに入りますとですね、バルチック艦隊が来た時にですね、挟み撃ちにされるんですね、日本は。
だから、絶対にウラジオに入れてはいけない、というわけですね。
そうすると、ウラジオに行かないようにいつも見ていなければいけない。
片っ方は、港かなんかにいるわけですね。
だからこそ、この船を動かしたら大変だという事で、旅順は入り口が狭いから、そこに商船を沈めて、船を出られないようにしようというわけで、旅順港閉塞作戦というね、広瀬武夫中佐なんかが出て来てという事をやるわけです。
あれは成功しませんでしたけれども、決死隊です。
要塞の中に入って、船を沈めようというわけですから。
それでも、決死隊がいくらでも出たのは、当時は水兵さんのみんなに至るまで、とにかくあの船が出てきたら、あの湾の中にいる戦艦隊が出てきて、バルチック艦隊と一緒になったら日本は滅びると。
というのは、海軍が滅びれば、陸軍がいくら陸で勝っても、あっぱっぱですからね。
絶体絶命、負けられない、海では。
という事が分かっていましたから、第3次決死隊まで行くわけです。
残念ながら成功しませんでしたけどね。
ですが、わけのわからない事が起こるんですね。
また旅順を攻めておった初めの頃ですね。
全然見えない旅順に試しに弾を撃ってみよう言う事で、ボカボカ1000発くらい撃ったんですよ。
そうしたら、結構当たったんですよ、船にね。
それでね、随分傷つく船が出てきて、向こうが慌てたわけです。
たまたま、それがロシア皇帝の耳に入ってですね、「港を出ろ、ウラジオストック行け」と艦隊が出て来たのが1904年の8月10日なんですね。
さぁ、どうするかですね。
これをウラジオに入れてしまうとですね、バルチック艦隊が来た時に、日本は挟み撃ちにあってしまう。
合わせてしまうと、戦力が日本の2倍になるわけですからね。
これを入れてはいけないけれども、これを入れないために海戦をやってですね、例え日本が勝ったとしても、こっちがうんと傷つけば、バルチック艦隊が来た時に困るじゃないですか。
いわんや、向こうに入られたらなお困ると。
にも拘らず入れちゃいけないというね、もの凄い難しい問題を与えられたわけです。
黄海海戦 迎え撃つ東郷平八郎
その時の司令長官の決断というのがどういうものなのかは私も分からないんですけれども、東郷さんは、とにかくウラジオストックに入れてはいけないだろうという事で、断固迎え撃ったわけです。
断固迎え撃って成功しても、こちらが傷つけばバルチック艦隊が来た時に困る。
ところがね、不思議な事が起こったんですよ。
それはもう、撃ち合っているうちにですね、すれ違ってしまったんですよ。
それで追っかけたもんだから、5時間くらい撃ち合ってですね、戦艦三笠の帆柱の根元に玉が当たってですね、帆柱が倒れ掛かったんですよ。
絶対絶命のピンチに、向こうと撃ち合っている時にね、今度は向こうの艦長と舵の所に、玉が当たったんですよ。
そうしたらね、命令する人がみんな死んじゃったんです。
丁度、司令官がいる所に当たったんですね。
それで、舵を取っていたやつも死んじゃってね、舵を握ったまま死んじゃったもんでね、旗艦がグルグル回り出した。
旗艦がグルグル回り出したもんだから、他の船もグルグルまわり出して。
それで、おかしいぞというような事でですね、慌てて見てみたら、舵を取っているやつが死んでいるというわけで、まぁこれはいかんというわけで旅順に戻るわけです。
そして、他の船も戻ります。
それを、徹底的に追えというんですけどね、結局、戦果無し。
疲労困憊の日本軍
もう、半年近くですね旅順を毎日こう見ているわけですからね、疲労困憊しているんですよ、日本軍の方は。
しかもこれをやっているうちにですね、日本の戦艦2隻も機雷に触れて沈んでいるんです。
日本は戦艦6隻しか無いうちの、2隻が沈んでるんですよ、そんな事をやっているうちに。
幸いにも、向こうもね、1隻沈みました。
旗艦ペトロパブロフスクという船で、ステパン・マカロフ提督が乗った船が沈んでくれましたから、一番勇敢な提督が死んでくれましたから、まぁ、それはよかったんですけれども。
それにしてもですね、8月10日の黄海の開戦というのは、殆ど成果なし。
ただ、成果があったとすれば、敵の船は旅順に戻ってしまったという事。
ウラジオストックに行けなかったという事ですね。
それから、日本の船も、戦果は上がらなかったけれども、沈んだ船は無かったと、無事で終わったわけですね。
その時は失敗だったと思っていましたけれども、東郷さんはね。
ただ、よかったのは、その時迎えに来たウラジオの船をですね、捕まえて、2隻くらい沈めて、日本の輸送船の恨みを果たしたと、まぁそのくらいの話でした。