黒木為楨大将の作戦
太子河という川がありましてん、前面に敵がいるわけです。
こちらは、黒木為楨大将の第1軍。
当時は、時代が良かったですから、どこにも観戦武官というのがいたんですね。
勉強の為に、他の国から来ている参謀将校。
黒木大将のところには、マックス・ホフマン中佐というのがドイツから来ていました。
それで見ていますとですね、大将が睨みあっている。
黒木大将が睨みあっていてもしょうがないと、兵隊を並べてですね、だまくらかしてですね、本体は全部別の所にまわして、川を渡ってしまおうという作戦を立てたんです。
そしたら、観戦武官のホフマンという、これはドイツの参謀本部から来ているんですね。
「黒木将軍質問があります」
というわけですね。
質問してもいいわけです、勉強に来ているわけですから。
当時の陸軍は、ナポレオン戦争に基づいて、大体戦術が組まれている訳ですが、
「川を渡るときは、とにかく大砲を集中して、敵を沈黙させてから渡るべきでは無いでしょうか」
「こっそり渡って、バレたらどうしますか?」
って言ったらね、黒木大将はね、
「いやぁ、ホフマンさんよ」と。
「わしは子供の時から戦争をしてきた」とね。
「大砲を撃って渡るったって、向こうの方が大砲は多いんだ」
「こちらが撃ち負けするかもしらん」と。
だからここは、ごまかして、後ろからサッと渡ると。
「今の私の勘では大丈夫だから見てなさい」
といったら、その通りだったと。
それをみて、ホフマンは感激しまして、黒木将軍の手を取ってですね、
「私は今までこんな貴重な教えを受けた事はありません」
と言って、帰ったんだそうです。
そして、この男が12年後ですかな、第一次大戦の時にですね、東方軍のね、作戦班長になるんです。
そして、敵の大軍とですね、タンネンベルクの戦いが始まる時にですね、同じく兵隊を並べてごまかしてですね、脇からバーッて行ってですね、あの歴史にのこるタンネンベルクの戦いで大勝利するわけです。
黒木さんから習った同じ手でやるんですね。
軍事指導の一つの美談っていうのかな、逸話ですね。
というような事で、遼陽では辛く勝ちます。
秋山好古の騎馬部隊
それから、陸上の戦いも、そう簡単では無いですね。
アレクサンドル・ビルデルリングはですね、日本は真冬は戦争は無いと思ったらですね、2月の真冬に、10マンの大軍が横っちょから来たわけですよ。
さぁ、大変だという事で、日本は大慌てでですね、立見尚文さんを中心にですね、独立軍を作って、黒溝台という所に激戦に行く。
その時に、まぁ有名なのは、秋山好古(あきやまよしふる)さんの、騎兵部隊なんですね。
これはあの、10年くらい前に出た、イギリスの日露戦争の本によりますとですね、秋山という名前は出てこないんですけれども、日本軍は、騎兵を歩兵として使う事を発明したと書いてあります。
これは、秋山さんはですね、コサックと戦ったって、どっちみち負ける事は決まっているんです。
向こうは、馬に乗って、シベリアを全部取った連中ですよ、何百年も、先祖代々、馬で戦争をしている。
日本は、馬は戦争用では無いんですよ。
騎馬戦なんていうのは無いですから。
それで、明治の初め頃に日本に来たイギリス人がですね、日本の馬を見て、「世界にこんな小さな馬がまだあったのか」これは進化論の証明になる、とか言って喜んだというぐらいのもんでしてね。
とても、騎兵は出来ないんです。
それで、オーストラリア辺りから買った、騎馬隊ですよ、騎兵隊です。
秋山さんはそれを任されたわけですが、まぁ、辛かったでしょうね。
ところがたまたまね、秋山の出身の松山のね、お殿様の息子がフランス留学するときですね、秋山さんの家は、松山藩の武士ですから、殿様の息子が行くんでね、頼まれてついて行ったんです。
そしてそこでね、機関銃を見たんですよ。
「これだっ!」てんでね。
それで、勝って貰ったんですよ。
機関銃を買ってくれたんですね、日本は。
それで、騎兵に機関銃を持たせたんです。
そして、コサックと戦う時は、馬から降りて機関銃で。
馬に乗って戦ったら、必ず負けますからね。
バッと降りて機関銃で戦うわけです。
機関銃は凄いですよ、これは。
一発一発ではなく、だだだだだだだだだだって出ますね。
人に当たらなくても馬に当たればいいんだから。
というような事でね、黒溝台でもね、秋山さんの騎兵隊は、一度も馬に乗ることなく、機関銃で頑張ったんですね。