日英同盟の成立
それでももう、向こうは下りるつもりですから、そんな約束はしませんよ。
それでもなんとか、と言っている間にですね、日英同盟が成立しました、という知らせが行くわけです。
そうすると、伊藤は、「そうか、それならいい…」と言って、帰って来るんですね。
自分がやろうとした、当時のロシアと仲良くしようというやり方ですね、それがまぁ、潰れたわけですね、ある意味では。
日英同盟を結んで、戦う方に切り替わったわけですから。
しかし、一切面子は考えないんですね。
「それはよかった」と。
「日英同盟があれば俺は違うぞ」
というわけで、すぐに政府を全力で支持するんです。
日露戦争に最後まで慎重な明治天皇
そして、これはどうしても日露戦争になるなとね、何度も決めるんですよ、それでも明治天皇から、「もう一回相談し直せ」と言われて伸びに伸びるんですけれどね。
いよいよ戦争をしなければならないとなったのは、鎮海湾(ちんかいわん)に、ロシアが軍港を作りたいと、言ってきたことです。
鎮海湾というのは、朝鮮半島の南端ですね。
そこから、元寇の時もね、北条時宗の時にですね、元と朝鮮の連合軍は船で、壱岐対馬を攻めているわけですが、そこに軍港が出来たらですね、これは、日本海、全部支配されますからね。
これには、日本も抗議しましたし、朝鮮も抗議しましたけれども、まぁ、聞かないんだろうという事は分かっていました。
それで日本は、抗議しつつもですね、今戦争をしなければ、どっちみち、全部取られてしまうと。
朝鮮は100%取られてしまうと。
そうなるとね、壱岐対馬も取られるだろうと。
おそらく、長崎なんかも港として取り、沖縄、台湾も取られる恐れがある。
ひしひしと迫ってきたわけです。
絶対に譲歩しないと言ってきているわけですから、向こうは。
満洲はもう、全部取っているんです。
満洲はね、日露戦争の前にロシア領になったという事は、イギリス人が書いたものは、みな証明していますね。
ですから、当時の満洲には、イギリスからの宣教師もおりましたけれども、中国の東北部の満洲は、イギリスの布教の地域から見ますと、ロシア布教団がやっていたんです。
だから、イギリスの教会から見ましても、満洲は既にロシアとみなしておったわけです。
それで日本は、色々と腹を決めました。
日露戦争を宣戦布告
シベリア鉄道が複線とかなんかになっちゃったらですね、これはもう戦争にもなんにもなりません、いくらでも来るんですから。
大体、当時の国家予算で、大雑把に言って、向こうは10倍強です。
陸軍の数も10倍強なんですよ。
1対10なんですよ。
1対10にもならない、1対11くらいなんですね。
それでも、当時のシベリア鉄道であれば、これは単線ですからね、兵隊を送ったって、そんなに送れるわけはないと。
だから、今だったら戦争できる、という覚悟を決めて宣戦布告したのが、1904年の2月なんですね。
日本を舐め切ったロシア
これはですね、ロシアの方は、完全に日本を舐め切ってましてね。
向こうだって、日本と戦争をするだろうという事くらいは考えていますよ。
ただ、当時はね朝鮮半島の鉄道と言うのは、釜山からですね、京城、ソウルまでしか無いんです。
京城、釜山までしか鉄道が無くて、あと北に無いんですよ。
しかし、その黄海には旅順を軍港にしておりますロシアの艦隊がいますからね、日本がロシアと戦争をするとしても、兵隊を送っても、釜山に上陸させるか、裏側のところの似たような所に上陸させて、それから満州に行くよりしょうがないと。
これは、どう考えても1ヵ月や2ヵ月はかかるであろうという考えだったんですね。
日本を甘く見ていました。
東郷平八郎 黄海の艦隊を一掃
ところが、東郷艦隊はですね、たちまち、黄海の敵の艦隊を一掃するわけです。
そうするとですね、おかしな事にですね、日本の連合艦隊と同じくらい、あるいはちょっと戦艦の数は多かったんですけどね、旅順にいる艦隊が、港から出てこないんですよ。
だから、出てきたやつはみんな潰しちゃったと。
そうすると、日本はどこにでも上陸できる事になりました。
遼陽会戦で辛くも勝利できた理由
それで、朝鮮半島をトコトコ2ヵ月かかってですね、行く心配が無くなって、いきなり船をバンと遼東半島につけて、そこで上陸して、満洲と旅順を断ち切る事が出来たわけです。
ロシアは、そうなる前に十分軍隊を下ろせるつもりだったんですね。
ただ、敵もさるものでしてね、日本の計算よりもはるかに軍隊の集中は早かった。
なぜかというとですね、単線ですから、列車が来て、戻る時間もあるからね、随分能率が悪いと思ったらですね、そこはね、大ロシアですね。
軍隊を乗せた列車がハルビンまで来ますとね、それを全部捨てるんです、そこに。
次から次へと捨てるんですよ。
戻せばまた、その間、レールは使えないからね。
そういう事をして、集中したんですね。
それでも日本の方は、船を使ってすぐに上陸したもんですから、簡単に旅順と、北を断ち切る事が出来ました。
それから、第一軍は、朝鮮半島をトコトコ歩かないでですね、すみました。
これがまぁあの、遼陽会戦で、日本が辛くも勝った理由です。
ロシア軍は当時、陸軍は大きな軍隊の固まりね、2軍ありまして、1軍はアレクセイ・クロパトキンの方で、第2軍がアレクサンドル・ビルデルリングというのが、ハルビンまで来てたんですね。
これが間に合う前に、遼陽の戦いになったわけです。
遼陽の戦いでは、日本の奥保鞏(おくやすかた)大将の第2軍と野津道貫(のづみちつら)大将の第4軍が正面から、それから、脇の朝鮮半島の方から第1軍の黒木為楨(くろきためもと)大将が、猛烈な突進をやりましてですね、そして、辛くも勝つんです。
遼陽全面の戦いでは、それこそ橘周太中佐が戦死したくらいの、激戦に次ぐ激戦で、日本はほぼ、攻撃力が無くなるくらいだったんですね。
ところが、黒木隊長が行った朝鮮半島の方は、もの凄く元気がよくてですね、太子河を一気に押し渡って、饅頭山を占領してという事になったんですよ。
その時の、非常に有名な話がありますね。