強い日本軍と弱い清国軍
ところがね、戦争を始めますとね、日本はね、鉄砲は村田銃に統一しているんです。
その、日本は武士の集団だったんですから、明治政府はね、武器に対しては非常に敏感ですよ。
大山巌大将だって、弥助砲という大砲を発明したくらいですから。
総司令官が大砲の改良者だったくらいの、非常に武器に対しては敏感でした。
村田銃というのは三八式の元になった、当時としては世界で最優秀の鉄砲になっていました。
それで武器は統一しているんですね。
ところが、清国はあっちから買い、こっちから買いですね、5種類くらいの鉄砲を撃っているわけですよ。
これはいけませんね。
それで、まあ、日本軍が突進すれば、日本軍の士官は一人残らず武士出身です。
兵隊は真面目にバーッとついていく。
当時から、歩兵の吶喊(とっかん)という言葉が非常に流行りました。
僕らが子供の頃も、しょっちゅう兵隊ごっこをやったんですけどね、最後になったらとっかーんっていうんですよ。
とっかーんて言ったら、負けも恐れず突っ込むという事なんですね。
脇目も振らず突っ込むというような軍隊では向こうは無かったもんで、あっさり勝っちゃうんですな、日本は。
それから海軍の方もですね、向こうは軍艦は大きいんです。
日本の方が小さいんだけれども、日本の方が遥に速力が速い。
それを巧みに使いまして、散々に打ち負かすわけですね。
これはあの、昔、黄海海戦の歌というのがありました。
煙も見えず雲も無く、風も起こらず波立たず、鏡のごとき黄海は曇りそめたり時の間に…とかいうような歌ですね。
勇敢なる水兵という歌でした。
それで、まぁ撃ち合っている時にですね、我々が小学校の時に習った話なのですが、撃ち合っている時に弾が当たって、倒れている水兵さんがいたんですね。
そしてその脇にいた将校に水兵がですね、
「定遠はまだ沈まずや」
と聞いたんですね。
「いや、もう沈みかけている」
と言ったらですね、そうですかと言って安心して死んだという話というのもありました。
日本人としては、清国は日本人を脅すために派遣した定遠、鎮遠という軍艦はですね、普通の人でも名前を知っているくらい怖い話だったわけです。
陸でも海でも日本の大勝利
それも日本の高速船隊ですね、しかも戦いのやり方も、日本は工夫しましてね、船の大きさは日本はずっと小さいんですが、船足が速いのと、たくさん撃てるっていうんでね、それが見事に成功しましてね、海軍も勝ちまくって、向こうは威海衛(いかいえい)に籠ってしまったという事なんですね。
陸上でも、ずっと勝ちました。
冬になりました時には、日本はそんな寒い時に戦う経験は無かったんですけれども、昭和になっても歌われました雪の進軍なんて歌があるんですね。
雪の進軍、氷を踏んで、どこが河やら道さえ知れず、馬は倒れる捨てても置けず、ここはいずこぞ皆敵の国…
というような歌がありました。
清国の降伏
それでいよいよ、ずーっと勝っていますからね、当時北京が都ですね、あの辺を直隷省(ちょくれいしょう)と言っていました、当時ね、直隷省で決戦をやって、占領をするかといった時にまぁ、降参して、和議が成立したわけです。
例えば、威海衛の場合はですね、敵の北洋艦隊の司令長官は、降伏を拒否して自殺しているんですね。
その死骸を送る時に、戎克(ジャンク)を乗せていこうとしたらですね、日本の伊東祐亨(いとうゆうこう)提督がですね、向こうはいくら敗軍の将とはいえ、敵の艦隊の司令長官である、と。
軍艦に乗って帰ってもよろしいと言ってね、本当は日本がだ捕してもいい軍艦を一隻出してね、それに自殺した敵の司令官を乗せて、送り届けさせた、なんていった美談もあります。
当時はまだ、大変、騎士的な戦いでしたね。
それから、原田なんとかという兵隊がですね、平壌の門に飛び上がって、下に飛び降りて門を開いたとか、そういった武勇談もありました。
なんか、武器が幼稚だったせいか、そういった美談もたくさんある戦いでした。
非常に面白いと思ったのはですね、日本軍の方が鉄砲馴れしておったという事だと思いますね。