福沢諭吉の脱亜論
その時、逃げてきた人の中に金玉均(きん・ぎょくきん)という人がいました。
これは日本で言いますと、大久保利通か木戸孝允みたいな人だったと思いますが、そうするとですね、朝鮮帝国が暗殺者を送ってきてしょうがないんですよね。
小笠原諸島に隠したりなんかした事もあったんですけど、そのうちにまぁ、向こうの方から丁重に呼ばれるんですね。
それで、福沢諭吉なんかは、随分可愛がったり、援助したりしたもんですから、あぶないから行くなと、言うんですけどね、行ったら、まぁ殺されましてですね、首は取られ体はバラバラ、そして川に投げ込まれですね、お父さんも死刑、子供も死刑かな、奥さんは悲しんで自殺、というような酷い目にあったりしてました。
そういう状況を見てですね、福沢諭吉は脱亜論を書くわけです。
アジアからもう、離れろというね。
こんなバカな国を相手にしていたら、日本まで損をするぞ、というのが脱亜論です。
その中で福沢諭吉はうまい事を言っていますね。
自分の家がちゃんとした木造でもですね、その周りにおんぼろの藁葺きの家があったらね、いつ火事になって燃え移ってくるかわからんと。
だから、そんな藁葺きの家に手を入れろって言っている暇は無いから、こっちが石造りにしろ、というようなのが脱亜論です。
まぁ、福沢諭吉みたいな人が、あそこまでガックリきたんですね。
当時の朝鮮をずっと見てて、ずっと手伝ってましたからね、朝鮮の近代化には。
もう、あきらめたと。
朝鮮に最初に出版された新聞も、福沢諭吉の弟子が京城でソウルで出したのが、朝鮮最初の新聞なんですね。
それぐらい、福沢諭吉は熱心に近代化を進めようとしていたんですけれども、まぁ効果はありませんでした。