明治維新後の朝鮮の態度
日本は、明治維新が行われますと、すぐに対馬の宗氏を通じて、当時は朝鮮と言っておったわけですが、朝鮮に日本ではこういう事があったという事を報告して、そして、改めて関係を結びたいという外交文書を送ったわけです。
それまで、朝鮮と徳川幕府の関係は、宗氏が、対馬に宗という大名がいたのですが、宗氏を通じて行っておって、日本からは行かないけれど、向こうからは通信使というかたちで、まぁ、挨拶に、将軍が変わったりすると来ていたわけです。
その、徳川幕府が無くなって、今度は新しい政府が出来ましたと、そういう挨拶で、新たに国交関係を結びたいという手紙を出したところが、拒否されたわけです。
その、拒否された理由と言うのがですね、日本では明治維新になりましてね、という文章の中にですね、天皇の皇ですね、天皇ですとか、大日本帝国ですとか、詔勅だとかそういう言葉を使った文章だったわけです。
そうしたら、朝鮮政府はですね、こんな漢字はね、「日本が使うのはけしからん」と言うわけです。
朝鮮にしてみますとですね、こういう漢字を使う資格があるのは、朝鮮の宗主国である当時の清国、まぁシナですね、シナだけであると。
こんな無礼な言葉を使う国とは付き合えないとか言って、国使を突っ返しちゃったんです。
まぁ、突っ返されたわけですけどね、日本の方も、まぁその辺は理由が分かりましたもんで、今度はそういうような言葉を使わないような事で交渉したんですけどね、全然言う事を聞かないんですね。
日本と清国の平等条約
聞かないうちにですね、日本は清国と交渉をはじめました。
だから、朝鮮は聞かないんだけれども、朝鮮の親分でありますね、清国と交渉をしました。
これは、スムーズに行きましてですね、明治4年に条約が出来ました。
この場合は、両国は全く平等という立場で、国交を結んでおります。
で、お互いにどっちが有利という事もなくね、全く平等の条件で、スムーズにやっています。
親分がですね、国交を日本とやる事になったのにですね、その属国の朝鮮は、なんだかんだとごねましてですね、話が進まないのです。
朝鮮が日本を舐めた理由
この背景には、こういう事があったと思うんですね。
その前にですね、アメリカのシャーマン号という軍艦が、今の仁川ですね、今のインチョンですか、仁川の港の所に行ったら、浅瀬に乗り上げちゃったんです。
あそこは、非常に干満の差が大きい所なんだそうですね、満潮と干潮の差が。
それを知らないで行きますと、船が動かなくなっちゃったわけです。
それで、やってしまえってわけでですね、焼き討ちしちゃってですね、乗組員をみな殺したという事件がありました。
それから間もなくしまして今度ね、フランス人の宣教師9人ばかりかな、殺したんですよ。
それでフランスが、抗議に船で行ったら、やっぱり浅瀬に乗り上げちゃってですね、結局追い返されてしまったんです。
そういう事でですね、えらく自信を持ったらしいですな、朝鮮は。
「俺たちは、黒船でもなんでも追い返せるんだ」
と
「日本みたいにだらしなくねえぞ」
と、いう事だったんでしょう。
てなことで、国使を突っ返し続けたわけです。
西郷隆盛の征韓論
当時の日本人と言うのは、皆、武士ですから、非常に腹を立てる人が多くてですね、「あんなのやっちまえ」というような話になったんですね。
まぁいわゆるこれが、征韓論です。
ところが、まぁ、西郷隆盛という人はですね、「それはやっぱりよくない」と。
まずは、「わしが行く」と、武装も何もしないで自分が行くと、そして説得しようと。
きっと、連中は訳が分からなくてですね、私を殺すだろう、と。
殺したら、兵隊を出せ、とまぁこういう事だったんですね。
だから、あの、西郷隆盛の征韓論というのはですね、大変人道的であってね、さあ攻めろ、というんじゃないんですよ。
俺が丸腰で行って殺される、と。
まぁ、殺されないで成功すると万歳だけどね。
恐らく殺されるだろう、と。
そうしたら兵隊を出してくれ、と、これなら十分な理由になると、こういう事でした。