「姓」に隠された秘密
例えばですね、「姓」というのがありますね。
この姓というのは何かという事なんですけどね、これは天皇が主だった家臣に与えるものが姓なんですね。
ですから、藤原氏だとか立花氏だとか源氏だとか平家だとか、みんなこれは姓なんですよ。
ところが、日本では姓がある人は、絶対に天皇になれないんですね。
ですから、藤原道長がですね、自分の娘を次から次への天皇の后にして、三代の天皇のおじいさんという空前絶後の事をやるわけですよ。
「こんなの、自分が天皇になったら簡単じゃないか」
と外人は思う。
しかし、日本人にはその発想は無い。
藤原道長自身はですね、
「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば」
なんて和歌は作ったけれども、自分は天皇になれない。
自分は藤原だから、天皇から名字を貰っているから絶対になれないのです。
それがなんか分かるんですよ、読んでいくと。
徳川幕府は、みんな源氏と言っているんです。
自分は源氏だと言っているんです。
織田信長は平家だと言っているんです。
その前の、鎌倉幕府から室町幕府は、また源氏なんですね。
源氏というのは、ちゃんと姓、かばねを貰っているわけですからね。
くれた人の方が偉い。これがよーく分かるようになっている。
伊藤博文が日本の歴史を学んだ日本政記
また、日本政記というのは非常にコンパクトなんです。
だから、伊藤博文なんかがですね、幕末に長州藩からお金を貰ってですね、密出国してイギリスに行くわけです。
その時に、日本の歴史を持っていこうと思った時に、日本外史だとかさばるからですね、日本政記を持って行ったと書いてあります。
だから、ロンドンに着いてから、密出国者としてですね、伊藤博文が日本の歴史とはなんぞやと、歴史知識を得たのは、この日本政記なんですよね。
井上馨もそうですね。
それが示すようにですね、維新の志士はみんな懐に日本政記くらいは持っていて、それが彼らの自信なんですね。
幕府よりも、我々は立場が強いんだというね、そういう意識が無ければ、ああいう事は出来ませんね。
だから、歴史知識というのは、非常に重要なんです。
歴史と歴史的事実は違う
我々が、普通、歴史教育とかいう場合の歴史はですね、歴史的事実とは違うんだという事を、非常にはっきり言った人があります。
これは、オーエン・バーフィールドというイギリス人で、本来、言語学者みたいな人ですけど、歴史の事も書いていて、こう言っているんですね。
「歴史的事実なんていうものは、雨上がりの空みたいなもんで、無数の水滴がいっぱい空中に満ちている」
歴史的事実は無数にあるわけです。
「ところがある角度から、ある方面からみると、綺麗な虹が見える」
と、この虹が、いわゆる歴史なんだと。
だからある国民がみると、こう見える。
そして、その国民の共通認識になったものが、それが歴史なんでね、歴史的事実とは違うもんだという事を言っている、実に明々白々の話で、分かりやすいですね。
だから、歴史的事実は、毎日毎日、無数に起こっていますからね。
どれが歴史かという事になると、これが共通認識としてみんなが見れるような虹、という事になります。
維新の志士が見た虹
その虹を、最初に分かりやすい形で見してくれたのが、頼山陽なんですね。
維新の志士たちは、この虹を見たわけです。
その虹は、今度は幕府の親藩と呼ばれた譜代の大名のうちにも、どんどんどんどん入って行くんですよ、虹が。
そうすると、その虹を見るとですね、とてもじゃないけど朝廷とは戦争をしたくないな、しにくいなという気持ちが、見た人には出てくる。