頼山陽の日本外史
水戸光圀が一番まとめたわけですが、それをもっと分かりやすく書いたのが頼山陽です。
日本外史というのを書いたんですね。
頼山陽という人は、本当の天才でね、もの凄い、創作力が沸くようになるわけです。
お父さん頼春水は謹厳実直でですね、元来は町人のうちなんですけれども、学問が出来て、広島藩の藩儒ですね。
藩の一番偉い人になっている。
詩文の才能もあった頼山陽は日本の歴史に興味を持ちます。
頼山陽が生きている間に出版した最初の作品は、日本楽府という66の首を日本の歴史から選んで作った詩集です。
しかし、出版はされていないけれども評判になってみんなが写していたのが、日本外史というのがありました。
日本外史というのは、平家と源氏の勃興から始まります。
武家政治から始まるわけです。
講談を読むように面白いですね。
朝廷と幕府の明確な関係
しかし、その評判を聞いてですね、当時の老中、松平定信がですね、俺にも読ましてくれというので、奉るんですね。
序文があるんですよ。
序文でもですね、書いていって、徳川家が出てくると、行を変えて一字上げるんです。
朝廷が出てくると、また行を変えて、2字上げるんです。
もう、朝廷と幕府の違いをちゃんと示すんですよ。
それをまた、松平定信が咎めない。
そして、日本外史を読んでみますとですね、そりゃあもう、講談よりも面白いようなもんですよ。
しかし、頼山陽の中には、非常にはっきりとした態度があるんです。
それは、徳川家康の事を書くでしょ、徳川家康が三河の守の時は、三河守はと書いてくるんです。
中将になると、中将殿はと書いてくる。
将軍になると将軍はと書いてくる。
全部位が変わる度に変えて書くんです。
位はどこから来たかというと、朝廷から来ているんですよ。
分かるように出来ているんですよ。
武士にとって幕府は絶対
だから、いわゆる相対化といいましょうかね。
それまではね、徳川時代の人にとっては、幕府は絶対のものなんですよ。
絶対、だって、支配階級は武士でしょ。
武士の一番頭は大名ですよ。
武士というのは、大名に忠義を尽くすもの、文句を言わずに殿様の為に死ぬもの、これが武士の倫理です。
その大名を、勝手に使用人みたいに動かせるのが幕府なんです。
こんなものをひっくり返そうなんて発想は、そもそも普通の人には無いんですよ。
ところが、頼山陽みたいな、彼は家を継ぐのが嫌でね、家を継ぐと固い事ばっかりしかやっていられないという事でね、逃げ出す。
長男ですから大変です。
それで、キチガイになったという事で許されるんですけどね。
それで、京都に住んで、日本人としては最初の文筆生活を始めた人の一人ではないかと思うんですけどね。
彼は、そこをちゃんと見てですね、朝廷というものがあるんだという意識で書いているわけです。
どんな人が出てきても、位が上がっていくと、位で書いていくんですよ。
一番上にいるのは天皇
一番上に天皇がいるという事は、誰が読んでも分かる、これを咎めようがない、全部本当の話ですからね。
で、悪口は一切書かない、咎められますからね。
徳川家の悪口なんかは一切書かない。
それでも、少将だったり、中納言だったり、大納言だったり上がっていくんですね。
大納言といったら、誰が見たって宮廷の位ですからね。
これが、超ベストセラーになるんですよ、幕末になると。
頼山陽が死んでから、川越藩が印刷したのが一番普及したと言われていますが、色んなところで印刷されましてですね、これが超ベストセラーになります。
ところが、もう一つですね、頼山陽は書いています。
これは、日本外史よりも四分一くらいの量だと思いますが、日本政記というのを書いたんです。
こちらは、コンパクトにですね、神武天皇から書いてある。
そんなものはですね、日本人は今まで見た事もなく、9割9分9厘の人間は知らない話なんですよ。
これはね、維新の志士となった人たちに、もの凄いモラルサポートとなったわけです。
「我々は、こっちの方に続いているんだ」
「徳川幕府なんかは、この辺から出てきたんじゃないか」
と。
そして、日本政記なんかをよく読んでみますとね、皇室と幕府の関係もよく分かるんですね。
幕府と公家の関係も。