水戸黄門が与えた影響
それから、もっと深刻な形に出たのはですね、水戸光圀が大日本史を作り始める。
これは、あの、非常に重要な歴史なんですけれども、もの凄く膨大なものです。
完成したのが、明治に入ってからですからね。
これは、戦前、講談社の野間清治が全部復刊しましてですね、これはもう膨大なもんです。
全部漢文ですね。
ですから、みんなが読むようなものでは無かったのですが、読めるものでも手に入るものでも無かったのですが、水戸の人などごく少数の見る機会があった人たちは、日本というのはこういう国だったのかと、幕府の上に皇室があるという事くらいは知っていたわけです。
だから、水戸が徳川家であったにも関わらず、もの凄くあそこから倒幕運動が出てくるのはですね、大日本史の本場だから、なんだかんだ、その知識が流れ出ているんですね。
これが大きかったと思いますね。
日本人に歴史を教えた頼山陽
それから、広い意味で日本人に歴史を教えたのは頼山陽です。
歴史は、今でもお隣の国から歴史の認識が足りないなって事を言われたりしていますがね、歴史の教育と言うのは、元来、どこの国にも無かったんですよ。
日本だって、読み書きそろばんの中に、歴史は入っていないんです。
歴史っていうのは、義務教育に入ったのはもちろん明治になってからです。
ヨーロッパでもですね、国の歴史教育と言うのはずーっと無かった、だから、日本と同じころに始まったと言ってよろしいです。
というのも、昔はですね、国の歴史と言うのが固まっていないんですよ。
例えば、ハプスブルク家っていうのがありますね。
お姫様をどっかの王様にお嫁にやる。
じゃあ、ベルギーを半分つけてやるか、とそんな感じでしょ。
だから、国境がね、国民国家にならないんですよ。
全部王朝でね、あっちにくれたり、こっちにくれたりしているわけです。
だから、中世のイギリスなんか酷いですよ。
イギリスの王様がフランスに持って行った領地が、フランス領よりも多いくらい、嫁に行った人が持ってきたりしてね。
だから、国境と言うのが非常にあいまいでね、王室しかないんですよ、観念として。
ところが、ナポレオン戦争以降、国民国家と言う観念が出来たんですね。
あれは、フランス革命の副産物ですね。
国家と言う観念の誕生
ウィーン会議が出てから初めて国境を定めるという観念がはっきりしてきたわけです。
国境を定めますと、国と言う観念が出来ますね。
その国という観念が出来ますと、その国への忠誠を尽くしてもらわなければ困ると、国民に教える必要があるわけです。
それまでは、べつに国に忠誠なんか尽くす必要が無いんで、殿様につくというわけです。
国に尽くすようになったのは、ナポレオン戦争以後で、新しいんですね。
しかも、それが学校に入るのは、それはもう、うんと新しい。
イギリスのような国でも最初にイギリス史が出来たのは、デイヴィッド・ヒュームという人が6巻のものを書いたのですが、これはフランス革命の少し前ですよ。
しかもそれは、学校で読むようなものではなくて、豊かなジェントルマンが、自分のライブラリに置いて、まぁ見せびらかしたりするようなもんででしてね。
だから、歴史というものは、通史として見るという習慣は、無かったんです。
どこの国にも割と無かった。
割とあったのは、シナでね、これは王朝が変わるわけですから、新しく出来た王朝は、必ず前の王朝の事を書くんで、まぁ、ずっと伝わってるわけです。
だから、途中で蒙古人の国が出来てもそこを書くわけですね。
たから、続いているような感じになるわけで、まぁ、だからシナには二十四史とか各王朝の歴史があります。
ですが、インドとか他の国はには無いんですよ。
日本も無かった。