【日本の歴史】真実の明治維新!西郷どんは学べない西郷隆盛の真実!渡部昇一

下関戦争

それから、大して時間が違わない下関ではですね、これまた長州がやるわけですね。

これがまた、コテンパンにやられます。

射程距離の違う鉄砲を持った人と撃ち合っても勝ち目がないという事がよく分かりましてですね。

ですから彼らは、武器を買う事に熱心になりますね。

長州も薩摩に頼んで買う。

薩摩もイギリスと手打ちをして武器を買う。

その武器を長州にも売れるように斡旋する、とかまぁそういう事が起こるわけです。

江戸幕府の弱体化

方やですね、江戸幕府の方は、攘夷したくないんですよ。

それでも当時の雰囲気、当時の孝明天皇の意思もあって、鎖国するなんて約束をしちゃったもんだから、京都の色々なゴタゴタが起こるわけです。

それで、長州征伐をやりましたけれども、一回目は半分成功して終わりました。

二回目になると、もう全然ダメで。

というのは、当時はもう、幕府が言っても、大部分が動かなくなっているんですね。

じゃあ、旗本はというと、旗本が弱くなっているんです。

まぁ、強い旗本もいたんですが、幕府が出来た頃の旗本八万騎なんて事はなくてですね、非常に文弱になっているんですね。

ですから、こういう話がありますね。

明治維新になってからですね、薩長その他、田舎の武士が、政府の高官、偉い人になりますね。

そして、当時の事ですから新橋辺りで芸者をあげて遊ぶ。

その芸者とかに、旗本の娘とかがいっぱいなっちゃうわけです。

旗本の娘の一人が書いたのを、読んだことがあるんですけどね、そしたらこんな風に書いてるんです。

「自分の父や兄たちが、今自分の所に遊びに来ているあの行儀作法も知らない田舎侍みたいに勇敢だったら、私もこんな目にはあわなかったのに…」

といった事を言っております。

だから、男は強くなきゃいかんですな。

東京地区から部落が無くなった理由

ですからあの、被差別部落と言うのは、江戸にも非常に大きくあったわけです。

花川の幡随院長兵衛とかあの辺のあたり、四谷あたりだってですね、大部落があったわけです。

だから、一説によると四谷と言う名前は、そこから来ているんだという、今の公明党のあたり、創価学会のあたりがそうだというのを聞いた事があります。

それで、その長州征伐を考えた小栗上野介なんかは、仕える旗本が足りないわけですから、部落の人たちに、

「兵隊になれば全部良民にかえす」

という事を言ったんですね。

すると、それまで非常に差別されていましたからね、戦争に一度出れば普通になれるってんで、大威張りでみんな入っちゃったから、実際、東京地区からは部落は無くなりました。

それをやらなかった関西とかね、関東地方にも田舎の方には残っているわけですが。

東京地区自体には、全く無くなりました。

これは、薩長征伐の副産物と言ってもいいです。

問題はですね、鎖国を始める時は、徳川幕府は「鎖国するよ」と言ってもだれも反対しないですよ。

ところが、開国する時には、なんとなく徳川幕府が「開国するよ」とは言えなくなっているんですよ。

だから、朝廷にお伺いを立てましょうと言ったら、「ダメだ」と言われて、維新の志士たちが、わっと怒るわけですね。

太平記が維新の志士に与えた影響

それはどういう事かというと、徳川時代の間に歴史が流行ったんですよ。

一つはね、講談という形で太平記。

太平記というのは楠木正成とか新田義貞とか足利尊氏とか出てくるわけです。

太平記読みが、ウェイトをかけたのは楠木正成とかね、南朝方にウェイトをかけて講壇をやっているわけですよ。

というのはやはり、庶民から見ますとね、徳川幕府は誰も批判する事は考えられないんですが、足利幕府を攻撃する楠木正成は、いくらしても構わないわけですからね、これは。

新田義貞が英雄になるんですよ、江戸時代にこれが。

太平記の大筋が、大体日本人の常識になるんですね。

それからあともう一つ、平家物語の方は平家琵琶の方で常識になるんですけれども、講談の方は太平記です。

ですので太平記読みと言ったんですね、最初の方は、講談の事はね。

講談者も尾ひれつけてやりますからね、派手に。

そうすると、幕府と戦う勢力と言うのが英雄に見えるんですよ。

だから、幕末の志士っていうのは、全部、もの凄く、楠木正成や新田義貞を崇拝しているでしょう。

あれは、最後まで幕府と戦った人だから。

足利幕府の代わりに江戸幕府をおけばね、

「俺は、今の楠木正成になるんだ」

という人がいっぱい出たと思います。

これが一つですね。

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