井伊直弼 安政の大獄 桜田門外の変
そうしますとね、武士たちは、
「なんだこの腰抜け幕府め」
という事になりましてね。
しかも、井伊大老がたった十数人の浪士かなんかに切り殺されます。
大老というのはですね、いつもいるわけではありませんね。
老中というのはいつもいますけれども、大老というのは時々いるわけです。
特に重要な役職です。
その大老がですね、たった十数人のですね、痩せ浪人か浪人かに殺される。
しかも、お城の前でね。
これでね、武としての権威が無くなるんですよ。
象徴的にね、大老の首が飛んだっつうんでね、無くなるんです。
これがね、普通の民政権だったらですね、暗殺されても気の毒だ、だけで済むんですけどね、大老というのは大将ですからね、武士の。
これが首取られたんじゃね、武としての権威が無くなる。
このシンボル的なものが無くなるというのは大きいんですね。
ですから、幕府が首が飛んでからですね、わずか7年で、明治天皇は江戸城に入っておられるわけです。
あっという間にですね。
ですからあの、首一つといっちゃいけませんけどね、象徴的な首と言うのは、取られると大きいです。
まぁ、そんな事も色々あってですね、幕府は非常に弱くなるんですね、思想的に。
ところが、長州藩とか薩摩藩はですね、逆に攘夷に走るわけです。
生麦事件
それで生麦事件というのがありまして、これはその薩摩の殿様の前をですね、交流を許されていたイギリス人の男女数人が横切って、切られて1人は死に、あとは怪我したりした事件です。
それに対して、また莫大な償金を取られるわけです、幕府は。
薩摩からも取ると言ったのですが、薩摩は来るなら来いというわけでね。
薩英戦争
まぁ、薩英戦争になるんですね。
この時おもしろいのはですね、薩摩の方は、割とうまくいったんですよ、大砲でね。
旗艦の船長が死んだりですね、敵の旗艦が、錨を切って逃げるという事がありました。
それは日本人はピンとこなかったですけど、西洋では、錨を切って逃げるという事は最大の恥だったんですね。
そんな事は知らなかったものですから、後で和解した時に、「錨を返してくれ」と言われて、はいはいと、簡単に返したそうですけども。
本当は、返しちゃいけないですね。
この時に、薩摩の人たちが身に染みたのはですね、
「大砲の射程距離が違えば戦争にならない」
という事なんですね。
はじめは知らないでね来た時は、バンと撃ってやっつけたけれども、射程距離からすぐに離れるわけですよ、イギリスの船は。
そうしたら、もうどうしようもない。
いくら撃ったって、海に落ちるだけです。
ですが、向こうの弾は、薩摩の町に、鹿児島にボカボカボカボカ入っちゃって、みな焼き払われちゃったわけですよ。
ですから、当時の薩摩の武士たちは、武器が悪ければ戦争にならんという事が、腹の底まで染みわたっていたんですね。