ペリー来航
ところがそういうところにですね、ペリーが来たわけです、安政か嘉永6年ですか。
ペリーの船が来ました。
よく教科書でありますね。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」
上喜撰というのはお茶の名前ですね、なんていうのが出ましたけれども。
徳川幕府が抵抗しなかった理由
あの時ですね、日本と他の国とで違ったところは、徳川幕府は抵抗しなかった事なんです。
これは、プラスとマイナスが、はっきり大きく出るんですね。
プラスだったのはですね、徳川幕府はなんといっても、武力政権ですから、「武」というものに対する感覚があるんですよ。
戦争して勝てないものとは戦わないというセンスがありました。
ですから、実に粘っこい交渉、今からみれば歯がゆいような交渉をやりまして、戦争は避けました。
韓国は武の国ではない
これは、お隣の韓国と比べれば非常にはっきりするんでね。
韓国では、今の仁川(インチョン)ですか、じんせんですね、さいもっぽと昔、言っていましたが。
あそこは、非常に海の干満の差が、大きいらしいんですね。
そこに、アメリカの船が入った時にですね、攻撃して追っ払ったりですね、それから、フランス人の宣教師を殺して、フランスの軍艦がやってきたら、それをやっつけたりですね、勝どきを上げているわけですよ。
勝どきを上げた理由は、船が動けなくなったところに、みんなが押し寄せたというだけの話なのですが。
白人なにするものぞ、となっているわけです。
というのも、韓国は武の国ではありませんでしたね。
リャンバンといって両班とありますけれども、本当は、文班と武班と両班があるんですけれども、文班だけが両班になっちゃって、武班は実際上無くなっているわけです。
武のセンスが無いんですよ。
本当の武士としてのセンスがね。
だから、もう大丈夫と。
ところが、江戸幕府の方は、あるんですよ。
これは勝てないと。
それで、色んな議論がありましたけれども大方針としては、とにかく軍艦も作って、対抗できるまで時間稼ぎをしようというわけで、一生懸命にやるわけです。
だから、幕府の小栗上野介なんかが作った軍艦制度というのが横須賀の元なんですね。
一生懸命やるわけです。
ところがですが、その時に一つはこういう情報もありましたね。