徳川慶喜の排除
その中にですね、岩倉は、徳川慶喜を入れなかった。
入れないで、大政奉還されたから、今後やっていこうと。
奉還したやつを呼ぶ必要はない、という意味だったと思うんですね。
そうしたらですね、土佐の山内公が「けしからん」と。
なんといっても、徳川家は800万石の大大名で、今までやって来た。
「この人を除くという事は、天皇が幼少である事をいい事にした野心では無いか」
という趣旨の事を言ったんですよ。
確かに、ある意味では、土佐の山内公が言った事は正しい。
ですが、そこにうまく引っかかったんです。
岩倉具視がやるんですね。
「天皇が若いからそれをいい事に勝手な陰謀みたいな意見出しをするとは何事であるか。ここにいらっしゃる天皇は英明な方である。無礼であろう。」
なんて言ったらね、天皇がいらっしゃるものですから、やっぱりね若いのをいいことにしてなんて言ったらね、バカみたいでしょ。
そうするとね、恐れ入っちゃったんですよ。
あとはねぇ、まぁ岩倉の独り舞台ですよ。
それでも、まぁ反論もあったんですね。
途中で休みましょうとか言って、私語もあるんですね、公家の間に。
その時も、岩倉が叱り飛ばすんです。
その時、もう一人いたのが大久保利通ですね。
彼は、薩摩藩の代理として出ていたわけです。
山内公が言われるように、
「徳川慶喜前将軍に、恭順の意がある、本当にかしこまりましたというのであれば、800万石全部出しなさいと、そうすれば恭順の意があると認めましょう」
と言ったわけです。
大政奉還と言ってね、土地は持ち続けるって、それは通用しないよ、なんて言ったら、そうだそうだ、っていうような事でね。
そのうち、ガヤガヤしているうちにですね、こういう噂を流す。
この時、会議の場所を守っているのが薩摩兵ですね。
西郷隆盛がいるわけですよ。
そのあたりから話が来てですね、グズグズ言うならね、殺してしまえと。
そういう噂を流すわけですよ、会議の時にね。
そうするとね、集まっているのは大部分が、公家と大名ですからね、殺されてはたまらん、と思ったのかもしれませんね。
それで、徳川慶喜を除いて、小御所会議が終わるわけです。
そして、慶喜は、恭順の意があるのなら土地を全部出しなさい、となっちゃったんですよ。
徳富蘇峰の近世日本国民史
で、これはその徳富蘇峰がですね、近世日本国民史というのを書くんですね。
徳富蘇峰という人はですね、明治に生まれ、明治の元勲たちを本当によく知っている、明治に酔いしれたような人なんですね。
だから、死ぬまでに明治史を書きたいと思ったんですよ。
明治史を書こうと思ったらね、どうしても、幕末を書かないといけないんですよ。
幕末を書こうとすると、その前を書かないといけないね。
その前を書こうと思うと、鎖国を書かないといけない。
そうすると、秀吉を書かないといけない、信長まで書かないといけない、となってしまうわけですね。
結局ですね、信長から始まってですね、50巻書いたんですよ、戦前ね。
それからまた、明治に入ってからね、40何巻書くんですよ。
それでもう、あんまり詳しく書きすぎてですね、日清戦争まで行かなかったんです。
ですが、もう本当に詳しく丁寧に書いてます。
徳富蘇峰という人はですね、昔の人でしかも大変な学者ですからね、古文書でもスラスラ読めるんですね。
今の古文書は、歴史学者もなかなか読めなくてですね、往生しているわけですけれども、流れる事の如く読むわけですよ。
漢詩なんかもですね、我々が俳句を作るように、作れる人ですからね。
しかも、政府でも、殿様、旧大名家でもみんなに非常に評判がいい、人気のある人でしたから、どこのうちに行っても見してもらえるわけですね。
それを全部書いたもんですからね、もう明治に入ってから、40何巻書いても、まだ日清戦争に行かないんですよ。
というような事で、最後になって公職追放みたいになって、最後のまとめみたいなのを一巻書いて、亡くなりましたけどね。