徳川慶喜 大政奉還
十五代将軍、徳川慶喜という人は、特に水戸藩の出身ですから、その虹は、その自分の先祖の光圀がもっと壮大な形で書いていますからね。
そういうところに行くとですね、戦争したくはなかったと思いますね。
そんな時にですね、こういう事がありました。
あんまりうるせえ事を言うからね、維新の志士とか藩が、あいつらに国をやらしてみたらどうかという案をですね、まぁ、彼は受け入れるんです。
そして、大政奉還というのをやるわけです。
「政治をじゃあ、やってくださいよ」
と。
その時は、やれるはずがないという気もあったと思うんですね。
結局やるとすれば、自分が中心となって、有力な藩が集まってやるであろうと。
それに公家が来れば、加わってもいいだろうと。
まぁ、これぐらいの考えだったと思います。
ところがですね、ここに岩倉具視という人がいたんですよ。
岩倉具視の知られざる働き
この岩倉具視という人はですね、僕が子供頃から、偉い人間として描かれているんですよ。
何が偉いか、ずーっと分からなかった。
維新の三傑なんて言われるとですね、西郷隆盛ですとかですね、大久保利通だとか、木戸孝允…
ですが、四傑というと、必ず岩倉具視が入るんですね。
これは、何なんだろうと思っていました。
これは、分かりにくいんです。公家ですから。
ところがですね、大政奉還したっていうんでね、今度、宮廷で会議を開くという事になりました。
その時に、仕切ったのが岩倉具視なんですよ。
その時は、当時まだ15~16歳だった明治天皇が、最初に出席なさった会議が慶応3年の12月に行われるんですね。
これを、小御所会議と言っています。
日本初の御前会議
小御所会議が、日本の御前会議の第一号と言われています。
御前会議と言うのはですね、天皇が出られる会議を御前会議と言うのですが、天皇は何も仰るわけではないんですよ。
昭和になるとしょっちゅう御前会議がありましたよ。
御前会議で戦争が決まったとかね。
天皇は発言なさらない。
あまり重要な会議をね、政府で決めますと文句が出るもんですから、一番重要な会議は、天皇に出て頂く。
そうすると、御前会議だっつうとね、天皇は何にも、座っているだけで、でも箔が付いちゃって他のやつが文句を言えなくなるという効果がありました。
御前会議で天皇が発言なさったのは、終戦の時だけです。
終戦の時は、鈴木貫太郎内閣が投げ出したもんでね、それなら言おうという事で、御前会議で天皇の意見がはっきり出て、終戦となったわけです。
他の時はみんな、招かれて出て、座っていらっしゃるだけです。
ただ開戦の時だけは、明治天皇が和歌をお詠みになったというだことですが、これは発言というわけでも無いんですね。
小御所会議でももちろん、幼い少年、明治天皇は発言なさるわけではありません。
その時ですね、重要なる大名と重要なる公家を岩倉具視が中心になって集めたんですね。